Jcurrent Holism

非局在

瞑想における内観世界と現実の一致点を追求する

友達

実は 今1分前まで! 次の記事のタイトルを何にしようか? 迷いあぐねていた
様々な概念が意識をよぎる しかし今一歩 閃き が起きない
前回の記事 無限性の共謀 はいってしまえば究極のゴールへの表現だ ここは一旦 記事の内容とはいえ日常に戻る必要がある
それで想いを巡らし ブッダかずひさ の動画や彼の twitter などみていた
今自分が記事の題材を考える場合 最も訴えたいのはもちろん 究極の実在 をどう認識するか? がこのブログのメインストリーム ではあるものの ブログ とはそもそも 日記 である もっとラフに考えて 日々の心境をつづればいいだけのことだ
それで 今気になっているブログの題材を 列挙すれば 「 瞑想の栄養 」「 友達というものについて 」「 神経質と豪胆 」「雷について」「詩の有効性」「瞑想時のボディ」その他いろいろあるのだが 今 このブログで最も重要な「 究極の実在をどう認識するか 」 これらに想いを寄せてこれらを考えていたとき ふっとまた認識に次ぐ認識が起こり 自分が友達という存在に愕然とさせられているという事実がこみあげてきた 単純にいって上にあげた これらブログのタイトル候補をみたとき 今最も精神に響くのは 友達 というものであり なぜ響くのか? を吟味したとき 湧き上がってくる想いとは 自分はいつもそうだった という認識である
それで なかでもごく最近私のリアルの友達において いつも感じている やりきれなさ を取り上げてみようと思ったわけだ
正直なところ 今日あげる親友といえるこれら友達に自分は無意識において傷ついているのかもしれない

これを考えたとき ブッダかずひさ の動画 年越しライブ2019-2020 は私にとって非常に考えさせられるものがあった
もちろん 友達 という箇所についてである

私は今現在 50 代初頭だ そしてリアル世界の男児の親友は二人いる 二人とも同年代の小学時代からの仲であり地元の幼少期からの友達ということになる でも多分お互いの「親友認定」は20代後半ぐらいからだろうか? まぁ週2ぐらいのペースで飯でも一緒に食う仲であり その時に最近の出来事や楽しみまた不安など話しあう仲だ もうかれこれその様式というのは20年は続いている

どうだろう? 今リアルの友達はいない という20代30代は多いと聞くが そうみた場合私はめぐまれているかもしれい
もっとも その 親友 となるに至るのは お互い絶交するような喧嘩なども経た結果 気が付くと親友と呼ぶにふさわしい状態に至っていたということであり 意図してそうなったわけではない

そして当然のことながら 今では、お互いの 違い をより詳しく ハッキリ と認識しあっていて その範疇においてほぼどんなことでも話せるわけで まぁこういうのが親友なんだろう という点で間違いはないとおもう

しかし・・・ こっからが本題となるわけだが 確かになんでも話せるのは事実だが こと50歳以上の男児ともなると 拘っているジャンルが明確に違うことが お互いハッキリ自覚しているのであり その点において たかだか2人どうしの お茶 の時間であっても 話の内容の分捕り合戦なる葛藤があるわけで やはり気をつかわないわけにはいかないのである

 神秘的なことに無限の関心をよせる私をこの親友達はもちろん自覚している そして 親友ケム と 親友キヨ と仮に現わしておくと ケムは彼自身神秘的なことにかなり関心は強い でもキヨの方は 私の年代としては、ごくごく標準的な感性であり 人の心 についての会話は好むが スピリチャルなどに熱をあげるまでにはいかないのだ
今日は 主にこのキヨについての話になってしまう 彼は どこまでも昔から人の心のありようにうるさく いつも社会で傷つき私に救いを求めてくるわけだ 実際つい3日ほど前も キヨのおごりで飯を食ってきた
まぁ もし彼を第3者の立場で知ることとなる人がいたなら 私に キヨは貴方をただ自分をなぐさめるために使っているだけだ というかもしれないほどである
 確かに それはいえている一面がある しかし決してそれだけではない というのがハッキリとわかる点は 私は彼のその強力に標準的スタイルを友達として尊敬し 彼から学ぶこと過去も今も多いのである
 私は過去 幾多の会社が合わず転々としたり 人間関係をこじらせ退社したりまた 若いときは喧嘩に次ぐ喧嘩をしていた
よって若い頃は、何をやっても中途挫折になったりの繰り返しで己を悔いていた しかし彼は1つの会社にずっと務めあげ また我々の年代においては 誰もが認めるような良質なサラリーマンであり 趣味なども我々の世代としては 標準的に誰もが認める生活を送っている また友達や知人も私より断然多い ごくごく標準的良質な一般日本人であり 会社ではバリバリ営業の仕事をこなしている
 また 過去において私が有頂天になっていきそうなとき 強く諫めて私の暴走を阻止したり 今まで人の繊細な感覚というものを私のプライドを損なわないギリギリの範囲で細かく導いてくれていることを実感するのである
私は どちらかというと極端なものを好んだり豪胆であったりしたため 彼の諫めが私の社会での人間関係に大きく役立ったことは間違いないわけで 彼から得ている恩恵はものはすごく大きいのである
 それで私は その恩返しというわけではないが、彼の会社での悩みを聞いたり また会社での立ち回りを指示したり 会社での出方のアドバイスしたりするのだが 私が彼にできる範囲の最も大きなアドバイスは 神秘的なスピ系の悟りによるわかる智慧を彼に伝えたいとおもうのである つまり一般的に 会社での人間関係上の心理戦や処世術といった 知恵や出方ではなく そんなものより比べものにならない スピ系の悟りにより得られる智慧を恩返しに教えたいのが本音にある

ところが!どっこい! これが難しいのだ なぜかといえば キヨは 心は重視するが 神秘を理解する認識力をもちあわせていないのである (^_-)-? 非常にそれが厄介であることは 明々はくはくなのである
しかし 今の私が彼にできる 最大の恩返しは それをやってこそ誠意があるし 実際最も私が彼にできる貢献とはそれであるにも関わらず それは至難の業である

ほんと 私はいつもおもうのは 日本の全スピリチュアル系のマスターを名乗る人達に できるなら彼に神秘の扉を開けさせる方法とはどのようなやり方があるだろう と聞きたいものだ とおもうくらいだ

 最近はそれでも ほんの少し私を見る目が変化して伝えやすくはなってきたのだが・・・まだまだだ
実態をいうならば 彼は ほんといつも良識を手に携え 人の心配りを絶えず観察しながら会社で営業マンをやっているのだ
成績もよく 今度は会長から経理の監視役を任されるほどだ それはひとえに会社の上役の人達が 彼のその人としての細やかな心遣いを悟ってのことというのは言うにおよばずだ
昔から キヨは 人の心を重視し 言葉には最大限の注意を払っていて その点において非の打ちどころが無い 当然そうであるから 昔から私へもできる限りの気をつかい 私が嫌がることはよほどじゃなければ言わないという手法を私にとっているのがありありとわかるわけだ
 それゆえ 彼は昔から『 普通 』の感覚という名の看板を最大限盾に使い 物事を判断している その精度たるやリアル世界では、100%といえるほどで非の打ちどころがないくらいだ
しかし私が認識している 彼の内面世界となると話は別になってくるのだ スピ系に熟達している人に一発でその真意を伝えるなら 彼のタイプは 前回までのブログ記事であげた①である 完全な典型的①である 全く①の代表格といっていいタイプである
当然 他力本願などという単純な概念だけでは収まらず 非常にセンシティブであり複雑ではあるが間違いなくタイプとしては①タイプなのだ よってこの部分で①がわからない人は 前回までのブログをざぁーっと読んでもらいたい次第だ

 したがって今まで 私と彼のたがいの人生の要所要所で 私は 本を勧めたり また若い頃は 密教の真意を教えようと試みたり あるは 今までいろいろやってきたが 効くどころか それによって喧嘩になったこともあるほどだ
もちろん 50歳も超えた現在に至っては そんな露骨に教え込むなどということはないが 若い頃は一か八かダイレクトに教えようとしたこともあった

いゃ~ これはほんと 結果的に私という人間の核真に迫ることにつながるかもしれないほど 今まで意識の片隅にある内容で 私の社会観察の1角をしめているのかもしれない
どれだけ いままで彼に これを伝えるにはどうしたらいいか? 頭をつかい続けてきたかもしれないのだ
なぜにそこまでするのか? とおもうかもしれないが 最近になればなるほど 彼の悩みは ここがわからないがために起きていることは明々白白であり 厳然とした事実でわかるからなのである
実は 彼だけではないのである 私の父へも同種の想いにかられることは多い

 彼は 徹底的に心を重視するのだ (^^) わかるだろうか? これ ほんと彼は 人への親切心や心配り その他 人情や良識などなど 一般にいわれるところの 人道、道徳 を徹底的に拘り それが欠如した人をみると 怒りに手を震わせるほど 良心的であり 人道主義にあふれている そしておそらくそれこそが 愛 だとおもっているだろう もちろんこの場合の道徳とか人道というのは 最低限の礼儀なども現わしているが 決して形式的なものではなく心根の部分の話である

そして そして! いよいよこっから切り込んでいくが 神秘的なことや スピ系がいうようなことは 本質的には、オカルトの幽霊の世界の話だと認識しているのである 笑っちゃうでしょ? 少なくも 観の鋭い人は私が訴えたいことがよーくわかるはずだ
その彼の強力極まりない 倫理観は 何に裏うちされているか? わかる人にはわかるはずで それは唯物史観にあるのである
そしてその意味するものは 言語野を通して構築された 正義観 人道観 道徳であり どこまで頑張ってもそれをでるものではないのである どんなに頑張っても!
どうしても そこから一歩踏み出すには 神秘観 が必要なのである そう スピリチュアルでいわれているような世界観がどうしても必要になってくるのだ つまりは 前回までの私のブログで言っている ②タイプの世界観である
もうそれは 親友である 私には 目の前のコップより確実であり ありありとした現実でわかるのである
どうだろう 読者は このあたりどうお考えだろうか? ・・・・・ う~ん それなら 冷静に説いていけばいいんじゃない? そういうかもしれないが!

それがどっこい そうはいかないのである なぜなら それは過去に私は かぎりなく冷静に ゆっくり理をとく形でそれを準備して それを実行しているのである おそらくそれは誰がやっても彼には通じないというのが 今私の見解だ
というのは 最近わかってきたのは 時間がちがうのである

 彼と私の時間が現実に違うことが 今の私の悟りである もちろん二人が空間を同じくするこの3次元物質界の時間は全国共通でいわずとしれたことだ しかし 彼の意識の時間は厳密には違うというのがみてとれてきたのだ もっとわかりやすい言葉でいうならば 彼の意識を構成している時間周波数とでもいうべきものが違っているのである

 つまり 私の主張の その神秘学を 認識できるだけの 意識の中の時間周波数に幅がない というほうがいいかもしれない
とにかく その 一般でいうところの神秘世界観の認識を得るまでに彼の関心は時間的にもたないのである
最初私は それは彼が内心 私をみくびってるからじゃないか? とも思っていたが どうもそれは違うことが最近ハッキリわかってきたのである
 また別な言い方をするなら 私が 彼の世界まで時間周波数を同調させることができない ともいえるかもしれない
とかく 前回の記事からわかるとおり 私はスピリチャルや神秘学に関心大 というより目指すものがそこにあることがわかる人間だ その私が 自分の中核を占める この分野の話は そのほとんどを彼にできないという結果にいたるのである もちろん それでも親友ということもあり 近況報告という部分では 「これは おまえがあまり関心を寄せないスピ系の話だけど・・・・」という具合に さらっと話すことはあるが そのほとんどは この点において楽しみを共有できないでいる
そればかりか 40代半ばにおいては それで喧嘩をしていいあったことさえあるのである

それを考えるとき ブッダかずひさ が 動画 年越しライブ2019-2020 で言わんとしている 友達 という定義はずばり的をついていると思う次第だ ブッダかずひさ 氏は 友達をもたいない主義をいっているが 私もある種似たようなもんだというのが実感だ
いつもおもうが 結局のところ私が最も売りにしている このスピ系の話題ができない というならば 何のための親友なのか? と首を傾げることは 実際多々あるものだ
 しかし 事態はまだまだ複雑だ ほんと現実は、小説より奇であり神妙極まれりといえるのは 先にあげた 親友ケムの場合である
 この親友ケムの場合は キヨと違い ある程度 タイプ②としてのスピ系の話が理解できる頭をもっている友達である
しかし このケムの場合は これまた今度スポーツマン精神も旺盛であり 理解できることはできるのだが 話がいい線まで煮詰まって いよいよ真意にさしかかるつい目前において いつも拒絶反応を起こしてしまうのである
そして こうつぶやくのである 『そういうの考えるのはいいけどさ~ ただ世捨て人みたいになったらおわりだぜ』 と
わかるだろうか? 最後の最後のギリギリの臨界点手前で これまた『普通』が顔をだし 一気に話はスタートに戻ってしまうわけである
 つまり 私にはありえないことが 最初からケムの認識論にはあるのである
例えば 私は実相の世界追求には 全くの白紙状態から 神秘を追求するのに対し ケムはそうしている部分もあるかもしれないが 半分は 自分はどこまでも普通の感覚の一般人であり その路線で可能な限りの神秘をみてみよう! これがベースにあるのである おわかりだろうか? ありえない発想をしているのである 神秘追求というのは 冷静な観察視点として物事の判断基準を一旦白紙に戻して 物理学的に絶対偏りのない分岐点0からみないといけないはずだ ところがケムは少しはそういうところもあるが なぜか無意識の部分で 途中からは常識とか普通というものを基準にみているのである 私がその点を戒めようと そこをつつきはじめると 話が深みにハマることを恐れて 普遍的常識を盾にとり激しく抵抗しておわるのである
まぁ単純にいえば そこまで神秘に興味がないのかもしれい 是非も無しである
ちなみに 私は 世捨て人になれ などと一言たりともいっていないし そうとられるような事は話していないにも関わらず・・・・

そんなこんなで ほんと私にしてみれば 親友とはなんぞや? と過去においてはよくイライラしたものだ

最も私は 人の自由はどこまでも尊重していて 理解する気の無い者は それに気づいたときピタリと話はおわるのである
もちろんこれら親友とこの系統の話でこじれかかると 自然を装いその都度おえている
またそこまで話が煮詰まってくると 大概においてケムの場合は 彼が自身が神秘的話題より好きな旅行の話に話題を転化するというのも多々あるである

まぁ最近は諦めて そういった親友との話題における現象自体 私の世界観察とて勉強にしているのである

ほんといつも 親友とはなんぞや? とおもうこと多々あるもので 彼らにしてみれば おそらく私が話そうとする濃密な領域というのは 怖いのである そこは開けてはいけないパンドラの箱であり それを開けたら最後と勝手に思い込み そう決めているため その部分の話はうざいだけと思っているのである 全く具の骨頂以外の何物でもないのである
なぜなら 私という人間とつきあう価値は実はそこにこそあるからである
(※この二人どうしにつながりはない あくまで私とは各々1:1のつながりである)

ほんと最近は その原因がおぼろげながらみえてきたのは先にあげた 内的時間周波数 だ しかしこれをいえば話は 前回の記事に戻ってしまうため あまり長くは話さないが つまり私は ワンネスの観点からいえば 彼ら親友という幻覚をみているのである
もちろん彼らからみた私もまたそうである こういった中にも神秘は隠れているのであり それ故 内的時間周波数 といっているのだ キヨやケムは丁度良い具合に このほんのわずかな内的時間周波数の違いにより 今世において出現した私の別な側面なのかもしれないとおもうわけである 非常に難解な言い回しであるが さらに厳密にいえば 彼らは私が最も伝えたい濃密な神秘学の部分を 避けているのでも 理解できないのでもないのである ここが重要で 実際には私というコアに接触していないのである
内的時間がそうさせないでいるのである つまり私は そこにこれまた 宇宙の神秘を感じているのだ
どういうわけか 表現に困るが 内面にある時間がかみあっていないのだ それの意味するところは 厳密には違う時空の住人ということだ 少なくとも 意識を基点とするならば まずそれなのである
それがゆえに いくら親切丁寧に 話しても 言葉や理屈では 実相の深部に近寄れば近寄るほど矛盾が生じ かみあわなくなるのである したがって私は 最終的には これが夢の世界だと認識するに至るのである
昨日の記事で挙げている『原因』や『本質』というものさえ意味をなさなくなる 絶対実在の影がおぼろげながら こんな場面にもでてくるのである

話は元に戻り ここまでは それら親友の視点から描いたが 今度は私の個人一般としての感情論からいえば ほんと残念極まりない話である
別にこれら 私がそれら親友に話そうとする パンドラの箱の部分は それら親友がよりよくなるようにするため 無償の奉仕で話そうとしているのに 拒絶するわけで 実際はもし話すことができた場合 後は本人がどうそれの知識を処理するかまでは強制しないわけで どこまでも自由なのである 私にしてみれば全くもって話すだけなのだ

しかも ブログを通して話すのとは違い それら親友との間のこの系統の話は その親友や私の出来事を元に話せるわけで より現実的に様々な具体例や共通する体験を通して 神秘とはいかなるものか? というのをどんな本より具体的事例として生で話せるのである
そして話しきってしまえば 私という人間は 決して人にものを強要したり自由を奪うことはしないわけで 話しおわったらそれまでなのにも関わらず いつも肝心なことを聞かずに 話はおわるのである
そして どうでもいい くだらい話を喜ぶから始末に悪いのだ

そこで私は いつもおもうのは ブッダかずひさ氏 が 年越しライブ で主張している友達観 というのは断然的を得ているとなるのである
ほんと 親友とは神妙であり 私のこの ケムとキヨからわかる通り 例えば スピの話が話せたとしても 今度はこのスピの広大な領域において 必ずそこには 違いが表れてきて その観点において意見が合わなくなるのである
おそらく 最近の20代30代はそれを最初から察知しているが故に 友達はつくらないのであろう
それらの事実がわかってくると 人間とはほんとどこまでも孤独なものだとおもうまでである
変な意味ではなく 人間は究極には友と 心底一切の違いを超えて一心同体となれるということは無いという結論に至るからだ
そう考えると 今私は リアルの世界より ネット上の方がさらに深い同性の友がいるようでならないのである

ゲーテ格言: 愚者も賢者も ともに害はない いちばん危険なのは、半端な愚者と半端な賢者である

Sudha sings the Moola mantra at Peace in the Park

黄金時代へ ウパニシャッドの精髄ムーラマントラの意味と意義