Jcurrent Holism

非局在

瞑想における内観世界と現実の一致点を追求する

静かなる目撃者

とある人は 人生の後半にいつも内面を占めていた宗教観の帰結を

『 やはり社会においては、完璧な ”嘘” の思想インフラが必要で世界の宗教偉人は完全にそれに気づいていたため 天国~地獄、また神などを作りあげた そしてこれら誰もが認める宗教の偉人は超スーパー知性の持ち主で凡人が手がでる域ではない 』・・・①

と読み解いたらしい つまり人間の理性ではどうしても割り切れない箇所に現象宇宙の幸福の実相があるため 世界的宗教界の偉人は 思想インフラ的に極楽や地獄しいては神さえつくりあげたというのだ

これを聞いたとき 正直なんとお粗末な帰結だろう 正直空いた口もふさがらないな~というのが私の見解だがみなさんはどうかな?

直感に長ける人は これをみればまぁどのような年齢層がこのような結論に達するのかすぐピン!とくるのではないだろうか?

大部とんで これにて導きだされる結論は 如何に何事も最初が重要か?という人生論的見解と 全ては紙一重という教訓が再確認されるといえよう

今から話すことは 馬鹿馬鹿しく非常に重要でかつ 上のような宇宙観においてまずいえることは 最初からとらえている次元が違うという点にある

 

例えば私ならこの場合 宗教観の帰結は

『 全ては内面と外界におけるストーリーの完全なる一致が目指すべきゴールとなるように絶対実在はその気付きを促して人生を展開させた 』・・・②

と答えるだろう もっとも私の場合は帰結ではなく途中段階なのだが・・・

つまりは まずもって それを追求していく 最初の最初が違うということだ

しかも面白いことに どっちがレベルが高い低いではなく 次元的にもかなり いや全く違っているから なんとも複雑な心境になる

 まぁ人の数だけ宗教や思想があっていいのだから当然といえばそうだが ただそれでも一見全く違う これら宗教観 宇宙観 社会観の帰結点に一応のギリギリの共通点がみてとれるのは そのベースにある大前提が この人も含めた現象宇宙の実態はどのようになっているのか? という問いかけがある

まず①の場合 みなさんは この人がどのように世界をみているのか? 賢い人はすぐわかるだろう

つまりどこまでも道徳的普遍性にはメスを入れず 人道的 人生論的 に全ての人が苦しまずやっていくにはどうあるべきか? という概念が潜んでいる

もちろんそれは重要なことでぬかってはならない事というのは承知だ

 

一方②の私の場合は 精神と現象宇宙の関係性とそのメカニズムはどのような構造になっているのか? という 精神にメスを入れ解析していくという悟りや解脱の世界を目指す者の視点があるわけである

もちろんこれとて その隠された前提にはそれがわかれば多くの人がより幸せに近づく事ができる というポジティブな想いもある

もう賢い人はお気づきだとおもうが ①は他力本願的思考が導きがちな思想で ②は自力本願主体 となる

が! この違いを他力本願 or 自力本願 というだけで片付けていいものか? と私の中にある静かなる目撃者はいうのである

 少しラフに話せば ① の場合 この年配の方は 私の父世代と同じように神と人間の間を取り持つ宗教の偉人=大聖人は、もうほとんど神に近い存在でありとても凡人の見解が通じる器ではなく それはまさに超スーパー知性に裏打ちされた存在になってしまっている そして自分の内面観察は その偉人が説くところの教理に基づき価値判断や考察をするかもしれないが その考察の仕方とは 多分だが ショバイツアー マザーテレサ 野口英雄 その他 身を粉にして社会奉仕に人生を捧げた偉人をみる視点とかなり近いのではないかとおもわれるがいかがだろう?

 

 例えば 小学生時に受ける道徳教育においての倫理観に裏打ちされた価値体系の行き着く先にある 道徳的 人道的 良質な人生観 のような 少なくともその方面の価値体系で さらにそれがなされる主な脳領域は『言語野』といえるだろう

 事実この ① のご年配の方は 今まで考えていたような人間が行う大脳新皮質における捉え方では 世界的宗教の偉人を読み解けない としているのだ

 

ということは 逆にいえば それまでは (旧)左脳的倫理観 もしくは言語中枢の働きによる 言語により構築される倫理観でそれらを捉えていたということだ
もちろん(旧)右脳=感性や情、イメージが全くからまないか?といえば決してそうではないが まぁ人間であれば誰でもがわかるごくあたりまえの倫理観と記憶や勉強を司る脳領域による『認識』がその人のかなりの宗教観の骨格をつくることになるということだ

『方法論』

そこには 私のような生まれつき内観を楽しみ青年期は明晰夢で遊んだりして 結果自力本願系の密教やヨーガを己の精神の基軸にし 瞑想したり人生を考えたりする者とは 全く全然!違う世界観になることは容易にみてとれるわけである
まず ②であげるところの 自力本願系の宗教観 世界観 というのは そもそもの方法論のメインストリームは 断然 瞑想や座禅 その他肉体を駆使する修行などなど ほとんどはこちらに主軸がおかれるのに対して ① はおそらくどこまでも『教義=文章』を読み理解するという勉強が主軸になるだろう もちろんその他実践がある この場合の①の実践とは人を助けたり、奉仕とかボランティアとかいろいろあるだろう

もっぱら私は つい最近まで①の世界観 つまり他力本願や キリスト系の宗教観はあまりいいものとは思っていなかった というのは 本質がわからずして何をいうのか? という想いがあったからだ しかし最近はちょっと見方が変わってきた というのは やはり 慈善事業や奉仕活動 ボランティアなど無償の奉仕においては おそらく自力本願系の団体や個人より 積極的だとわかってきたからだ

ただ今も自分の方法論はやはり ②でありどこまでも現象宇宙や自分の内面の本質追求という瞑想に変わりはない
それ故 やはり①の 他力本願に視点をおく人達はどうしても損だと思ってしまう
事実 ①の 人生の後半の宗教観の帰結点をあげた年配者の職業は 学者なのだ

それこそ我々凡人が 必死に言語野を駆使して勉強という名の作業に頑張ってもそう簡単にはなれない 学者としての立派な身分をもっているのである
いつも 今までおもってきたのは なんでそんな立派な頭脳の持ち主が ①に帰結していくのか? ということだ もちろんこの年配の方だけでなく 日本の他力本願系宗派からキリスト教系のそれも 世界的規模で考えてそれは損だろう とおもうわけだ

 つまり 瞑想などを実践する自力系では 『トランス意識』を通過して 事物の実相に迫るわけだ

いゃ 勘違いしないでほしいのは そんなの信仰の自由だろ というのはもちろんでそれをいえば このブログは全く意味をなさない このブログが追求しているのはそれらのさらなる深い真意である

しかし 内観=瞑想したことある人ならわかると思うが やはり ① のみでは最終ゴールは相当難しいだろうし またその間においても ②ぬきに その路線で宗教など計れるはずもない と思っている人は多いのじゃないだろうか?
それは 直感の圧倒的実感でわかることではないのか? なぜかって ①のみでは結局 言葉の世界でしかない となるからだ やはりいきつく最終ゴールの強力な手助けは エネルギーの解釈であり 強力な閃き的認識と強力な直感である

いうなれば 生命エネルギーの構造学 とでもいうべき世界を垣間見ることなくゴールに辿りつくことは至難の業になる またどうしたってそっち(②の自力)の方が早くなるというのはいわずとしれている

それは おもしろいことに 先があげた 奉仕活動はどうしても①の方が多くなるということを考えると同時に ②はどうしても偉そうな振舞いに陥ることになる という欠点がある それもおもしろいことに 人類全体からみた場合 そこに実は調律があるというのがみてとれる

 つまり①タイプは本質から切り込まないが故に②からみたら そんな風に人を神格化するなよ という芸当をやってのけ 心から神のようにあがめるがゆえに①タイプは 奉仕の精神が強くなるわけだ 内側を追求する②にはどうしたってこうはなりきれないとなる おわかりだおろうか? (※次回触れようと思うがこの点において 内部性と外部性 また時間的輪廻もこれには関係してくることが薄っすらとわかる)

自力系が得意で瞑想が苦にならない人は是非に知るべきはここで なぜに①タイプの他力系は 奉仕精神が強いのか?というのは それは本質を追求する方向には②ほどあまり得手でないのである それ故 その精神の内部構造解析に向かわないからこそ 精神の内部構造がわからないがゆえに 宗教指導者や神をより一層あがめるに至るわけだ それ即ち あまり内面の人道的宗教観それ自体は最初から最後まで ②の宇宙観ほど変化しないといえる それ故それらの総合的帰結として奉仕精神は②より大きくなるというエネルギーの流れになるのである また本人達にしてみるとそういう形態が好きであり そこに精神的清潔感を感じる価値の方が 内面の物理学者みたいになるより全然価値が高いのだ よって言語による列記とした区分けを重んじるのもそこにある

 このエネルギーの全体性と流れ模様が! まるで釈迦がいった これありてあれ在り あれありてそれ在り まさにそれが こんな箇所におきているのだ 即座にそれは 真言密教曼荼羅を思い浮かべる人もいるだろう さらに直感の鋭い人は 政治上の左翼右翼の性質を思い浮かべる人もいるだろう(※このあたりからがいよいよ閃きはほとばしるのである)

つまり私と同じような②のタイプというのは 本質を追求するため どうしても①にはなりきれない なりにくいということになるのである そしてみてくれより本質追求の哲学的視点の方にエネルギーはいくのである

ここが私の最近の直感的悟りの部分でもある つまり私は、②こそ完璧だとつい最近まで思っていたのだがそうではないということだ しかし方法論としては優位だという事実に変わりはない(ここが味噌だ) だが全体の調和という部分でみた場合 ②ばかりでは社会がめちゃくちゃになるのがよくわかってきた つまりそこに魂の色彩の性質をみるのである
おそらく①の人は 理屈でいくら②のほうが宗教の行き着くゴールをみるのが早いとわかっていても! なぜか②の人のように瞑想することはないようになるである

それが証拠に私は 今まで①タイプと論争するとほとんどの①タイプの人は最後の最後には そうだ まさしくあんたのいうことは最もだと思う と納得する つまり②の方が宗教上のゴールが早いことを認めるのである! つまり方法論的には②が優位というのは、自然に考えて小学レベルの勉強を理解する頭をもっていれば 誰だって最後にはわかる単純な理屈だ 事実それが故に濃密な教え=密教となるのだから

しかしわかったからといって①タイプの人は②の方法論や修行体系にはなぜか首をかしげるわけだ そして最後には違和感を感じ結局①に戻るのである

つまりそれこそが科学的に絶対分析不可能な 絶対自然の絶対”性質”の顕現なのだ

②が得意な自分にしてみれば なんとかわいく愛らしいことか!と最後にはおもうのである 逆に半端に②が得意で鼻高々となっているような輩よりはるかに人道的には優れているとおもうわけだ つまり②タイプにしてみれば①をみているとおもしろくてたまらないし またその逆もおそらくいえるのだろう

つまりはワンネスとしては、そのようになっているのだ そして方法論としてもやはり他力タイプは、①が正しく①に偏っていくだろう そして純粋に奉仕や人助けその他をやるのである ②ではそれはあくまで2の次3の次だ そのように 全体としては 無意識からの信号で分布ができるということだ これこそ実在から無意識に沸き起こる自然調律なのかもしれない 全く不思議でならないとなる
そして ①からみれば②は摩訶不思議にみえ また②からみれば①こそが摩訶不思議になるのである

考えてみると これは政治世界のどっちかといえば左翼 どっちかといえば右翼 という傾向の本質も こういった ワンネスにおける実在から上への選別なのかもしれない

ほんとこの点はそうみて初めて納得できてくるのである その良い例が 一般でいうところの超IQの高い大学の博士レベルの実績を残す人が 自分の内面であたためていたその宗教観の結実が 実はこのブログでいうところの②でやったほうがはるかに効率が良いとわかっても (^_-;)おやおや 魔訶不思議で実行までには至らないどころか そんな自分の意識をトランス意識状態に深めていくなんてそんな気味悪いことできないよ という具合で やらずにおわるのである ②のタイプからみれば えっ? 大学の工学レベルの勉強に比べたら 瞑想なんて超簡単で楽なはずなのになんで~? となるのである

(※上はいままでの自分の体験から大方予測されうる事態をいっている、私は多くの人に瞑想をすすめてきたからこれがわかる

※また①、②タイプとは中盤以降はもはやその年配者の見解というより ①内的宗教観の方向性を他力に求める人 ②それを自力(密教や内観のスピ)に求める人 をいう

)

つまりは おそらくそれが絶対実在からの霊性のわかれどころだと 我が内的 静かなる目撃者はいうのである

そして それが故 ①、②においてどちらが高い低いということは決して存在していないことを悟るのである 答えをいえば 自分が体験している世界は唯一無二の絶対実在からみれば 全てが自分(実在)の顕現であり 考えてみるとそうなってあたりまえだというところに至るのだ それこそが自然であり そこに優劣の差が絶対ないことが見てとれたのである ここにはもはや科学的検証は不要なのだ また科学でわりきれない 人の魂が関連している領域であり どれだけ科学が発達してもこの比率がなぜ発生するかの真因はつきとめることはできないし そんな必要は全くないといえる

宇宙が存在したときからの絶対性質であり絶対自然で 厳然とした実態だということだ

それは科学さえも生み出す絶対実在の顕現がそうさせている至極当然の色彩だからである
 肉体の自分の左手と右手のどっちがレベルが高くどっちが低いなどという馬鹿は全く存在しないわけで 我々はそもそもごくごく自然なそういった現象宇宙の調律の中に実在の完璧性を感じるのである そう それこそが『神は完璧だ』とする言われの一部だと認識するのである

(次回のブログはこの続きからさらなる気づきを書くものとする)