Jcurrent Holism

非局在

瞑想における内観世界と現実の一致点を追求する

教師

 もともと中学や高校で 番長 や 裏番長 という名の座にいた人達よ 目を覚ませ! ちょっと考えてくれ 貴方がもともともっていたもの それは何だったのか? もちろんそれは本質的に暴力ではないはずだ なぜに貴方は番長だったのか? もちろん 番長 だった人以外も同じで ちょっと現代社会を考えるポイントのひとつが この山口敏太郎氏の動画である
youtu.be

番長がなぜに 番長 であったのか? それはやはり 人を見抜く才能ではないだろうか? しかしどうだろう?現在はおそらく会社では身を低くして そして子供が通う学校では我が子が嫌な思いをしないだろうか? いじめられてはいないだろうか? とソワソワしている人もいるのではないだろうか? そしてそれはますますもって身を低くして現実を見通す目を曇らせてはいないだろうか?

もちろん 人間とは自分のことならまだ何とかなるが 息子とか娘となると それはもう真相が見えないだけに気が気でならないとなる
その不安はさらなる問題を引き起こしたり ありもしないことに神経をとがらせることになるかもしれない・・・

それでも賢明な人は知るはずだ もういくら騒いでもこればかりはどうにもならないと 所詮子供世界のことは本人しかわからない
気が付く範囲で見守っていくしかない しかし! 教員におかしな奴がいたら遠慮なくいわせてもらおう こんなところだろう

しかしその教員の実態たるや 自分が会社で嫌な思いをしている汚くドロドロした人間関係と同種のものを抱えていて それで動いているだろうことがわかるのがこの動画である

ただ聞いてあきれ果てるのが なんと!それが 女校長とそれをとりまく女三人衆だと? 女帝?

全国の殿方 これを聞いて貴方はどう感じるというのか? とくに一度でも番長といわれた経験のある人には尚更だ

全国の殿方は 内容を一切聞かなくても これが意味する『状況』というのは とくと!わかるはずだ

内容など一切聞かなくても 最悪で・・・ 良くて・・・ というような空気観がこの学校には漂っていて もはや昭和期~平成初期にみられた健全な状態といわれる 理想的な学校の空気など ほとほとないのではないか? もし貴方が50歳以上の日本男児なら必ずおもうはずだ

それは 左翼とてわかるはずであり 心の奥底では相当狂ってきているな~ と直感が走るはずである

「誰々(生徒)と誰々(生徒)がきたから私今日機嫌悪いの~」だと~? えっ何を勘違いしいるボケが

悪いが私が昔通った小学中学では このようなセリフを吐いた先生がいたら 即座に大問題になり さらに次の日には組長や政治家にその声が届き 即座に次ぎの日その教師は懲戒処分だ

そしてそのような教師を野放しにしているような校長はいなかったであろう そもそもこの人を泥棒に祭り上げた馬鹿な先生はちゃんと首になったのであろうか?
 えっ? 我々はツィッターやブログで少しでも日本が良くなり 自分も自立できたらいいな~っと思いながらわずかな収入UPのため努力しているこのご時世に 子供達のお手本となるべき学校の教員のくせして、影で悪徳を働きながら 安定収入と名声を得ていたわけである その落とし前はちゃんとつけられたのだろうか?

もしその学校の校長がその教員を首にしていないならそれは 完全なる堕落であり悪徳といわざるおえないわけだ その馬鹿な教師を首にしていないという行為は、明らかにそれは社会悪の繁栄を意味している 絶対許されるべきではない!

もし首にしていないなら その学校の校長を表舞台にだして 社会の制裁を受けるべきである! 

元に戻り この動画の内容を吟味する前に 校長が女性で 校長をとりまくブレーンが全員女性であり 女三人衆などとほざいているだけで 殿方は ほんとのほんとの内心は それが意味する状況というのがよくわかるはずだ

ただ本音を言ってしまえば 下手にその状況に口をだせば すぐ『女性差別だ!』となるため 自分の身可愛さにこれを非難はしないだろうことは簡単にわかるが 私はちがう!

もうこの トップ3馬鹿ラスが全て女性というだけで 大方その学校に漂っている雰囲気というか空気はみてとれるといえるだろう

もちろん! この動画で最も問題となる その誰からも嫌われて さらには人を泥棒に祭り上げていく馬鹿女は別としても 私がおもうのは 果たしてこのような トップが全て女性などという社会は絶対許されるべきではなく

全国の殿方よ 何をしている! 声をあげろ! 男子の尊厳を叫べ! あんたのその一声が宇宙さえ変えるのだ! ということをいいたいのである

確かに 女性というのは 直感は鋭いものをもっているだろう このトップに女性が君臨するというのは、理性的に考え確かに他の教師や生徒にとって利点もある 男性にはできない細やかな心づくしなどあるかもしれない

しかし これは厳密にダメなのである なぜならこれは 高名な心理学者や人間学者はみんな口をそろえていっている事がある

それの一つに 潜在意識 集合的無意識 の領域がある とくにここでものをいうのは 集合的無意識

それはどういうことかといえば 女性の地位向上というのは 盛んに叫ばれるようになってまだ100年もたっているかいないかだ

では全人類的にみて 人類発症からいままでずっと世界をけん引してきた男性社会 その男性社会が築き上げた 男性の 集合的無意識 というのは つまり数千年の蓄積とノウハウがあるということだ

もちろん 集合的無意識 事態がまるで生き物であるかのようないいまわしかもしれないが 実際問題そうみても間違いではない

それは 現代でもちゃんと殿方の深層には深く定着していて その 物事の加減、物事の判別、物事の決断、タイミング、全ての采配における膨大なデータベースを保持しているのである

それは 単に誰それが優れているとか能力があるとかいう問題とは全く違えば そのデータベースに基づく『 観どころ 』において 女性
のそれは まだまだ体を成していなく 数千年の開きがあるといっているのである

そんなことは 殿方であれば 黙っててもわかることだが 最近は 野郎の癖にこれがわかってない 恥知らずが多いから困るのである

そこが充分よくわかっている 他国の戦略家は 日本に謀略をしかける際には必ず女性に共感を呼ぶ世界から入るだろう

 現に中国なんぞがそうだということは誰だってしっている もちろんこの場合の謀略は 男性政治家にハニートラップをほどこす という言わずと知れたものが有名だが 今話しているのは そういう側面だけではなく もっと大衆洗脳のベースにある部分の話である

それが証拠に 『 これからは女性の時代だ ~ 』などと寝ぼけたことをいう輩がいたら ひとつお聞きしたいのだが

『 ほんとそうか?』『じゃ現在において 世界を真に支配している連中は女性か?』

と聞けば 一発でおわりだ

 なぜかといえば 陰謀論的なことを深く掘り下げ考えられるのもこれまた男性の特徴であれば また 現在の世界の真の支配者が女性であるはずないのだ なぜなら 残念かなまだ現代の世は 最後の最後には暴力と金がものをいう世界なのだ

いくら個人がアセンションしたって その事実は変わらない

つまり そもそも 何も女性の時代に至ってすらいなければ そもそもそのような言われが どの範囲で どういう形でいわれているものか考えてみればわかるはずだ

そもそも 男性の時代 も 女性の時代 もないのであり その都度その都度 真の実力者が治めるのがこの世の常である

単純な輩は 『いゃ エリザベス女王がいるじゃん』というかもしれないが その解釈は全くの間違いで仮にそうだったとしても その運営は 女性がやっていると思っていたらとんだ勘違いもいいところであり 影の運営采配者はほとんど全部男性のはずである もちろん峰ふじ子みたいな輩もいるかもしれないが・・・・・

しかし その運営戦略立案とは 男がやるものだというのは どんなアホでもわかるだろう

そうみた場合に これからは女性の時代などという根拠は全て消える あえていうなら 世界の真の実力者がそのように演出したほうが都合いいから そうふりまいているだけでしかないのが事実である

さらに別な言い方を示すなら ネット社会が普及し いままでのような力を要する部分が減り それより『小まめな IT遂行力 』が必要とされてきたが故に 一見そうみえるだけでしかない これが厳しい現実である

もちろん 言論の強さはこれらにより多少増した というだけであり いうなれば 男性女性は昔からその特異とする範囲が違うだけだ

よって自分はいうのである 女性だけの組織なら別だが 男女混合の組織においてやはり トップに立つべきは男性であるべきだと!

そして そういった 理念の 哲学 とは別にして 男ならまず自分の性を重視しろ! と 男なら男子の尊厳を裏切るような輩にろくな奴はいない! ということである

男が最も得意とする 男しかもっていない 本能を考えてみよ! ということである 女という生き物はある種別次元の生き物であり 男だけがもつ 男特有の特徴を軽く笑いとばすのだ そんなもんまともに相手などするからダメなのである

もちろん 本能 とは それはもちろんスケベ心のことをいうのではなく その先にあるものである

わかりやすくいうなら

現代のネット社会を構想立案し そうなるように社会を構築していったのは誰なのか? もちろん男性だ

悟りや解脱は誰が開いたのか? 昔から生活苦で苦しいさ中にそのような世界観をうちだしたのも これまた男性である

一般相対性理論は誰がみつけたのか? いわずとしれたこと

ありとあらゆる文化的ジャンルのほとんどは誰が開いたのか?

宗教家には女もいるが なぜに哲学者に女性はいないのだろうか?(自分が今まで聞いた「哲学者」といわれる人で女性は一人だけだ 後は全て男性)

そもそも 今までの世界において あらゆる業界のあらゆる『システム』は誰が考えてきたのか? えっ?

そんで超ヒモ理論や 今をときめく 量子論 を考えだしたのは 女性なのか? そろそろ言うこと自体馬鹿らしくなってきた

考えてみれば 簡単にわかることだろう そう! すでにできたものの業務追行するのではなく そういったものを企画立案して創造したい!

とする そこに 男性特有の 本能的特性があるのである! ここまでいってわからい馬鹿な男は もう男をやめてしまえ

それは 男性の集合的無意識の奥にあるもの それが無しえた技であり それが男性の本能であり特性である!

続く・・・・・

仏教観

私の仏教観

私が知りえる仏教の大きな枠組みとなる概念を吟味するなら それは大きく分けて2つ、もう少しわけるなら次の5つにわかれることとなる


①, 釈迦観

②, 悟りと解脱世界の認識

③, 宗教教団としての構成経緯

④, 現在のインド宇宙観 ヴェーダンタ、ウパニシャッド世界における位置づけ

⑤, 現在日本における仏教の必要性


まずは何より 仏教というものの設立経緯:歴史を大まかにみていき要点だけは漏らさず分析することが必要である

最もまず最初に 釈迦が生まれた当時のインド全体における宗教学派にどのようなものがあったか?
そこからみないと 決して物事の真義は語れない

まず私がいつも最初からわかっている漠然とし事実は 釈迦が生まれる前から 真に解脱した聖者というのはインドやヒマラヤには結構いたであろうということが 原始仏典の記述からも 薄っすらと予感される

それが故に 念頭仏なる 釈迦を導くさらに太古の仏がでてくるし そもそもインドの大きな学派やサドゥの団体 その他多くの原始宗教団体やヨーガ団体は、太古からほとんど変わらない形で今もインドに面々と受け継がれている

そこから推察できることは 我らが日本人の間では 悟りを得た人 解脱を得た人 これらがそもそも仏教用語と化しているため
これを成した人は1000年に1度全人類的に1人現れるか否か? というレベルに解釈されてしまうわけだ

しかしそれは 原始仏典やヴェーダより遥か以前のインドの歴史や教団を調べれば 一発で 5、6千年以上まえから面々と受け継がれている概念であり その解脱なる概念でいうところの意識段階に達していた人はたくさんいるであろうことは容易に推察できるのである

 もちろん 人類に知られていない 全く無名のまま亡くなった聖者など含めればそれはかなりあることが容易にわかるのであり明々白々である

 私は以前 もう25年以上まえにある原始仏教系団体を喧嘩してやめた理由はここにある その宗教の信徒はそれは絶対ありえないということを 顔を真っ赤にして 怒ったチンパンジーの如く突っかかってきたため 頭にきてやめたのである

 その団体は、この系統を研究しまくっている癖に そのようなミノムシほどの智慧さえもっていないとは あきれ果てるまでであり まぁ 『あんた達は、何のために宗教を必死に勉強してんの?』という次元でありおわっている
つまりあろうことか この団体は自分達の団体の教祖こそが それを継ぐ唯一の人だと笑ってしまうような認識にたっているから怒りまくりたれまくりであり みていて滑稽極まりない なんともおぞましい限りであり 己の低能さがわかっていないのだ

大方 我らが日本には このようにアメーバほどの智的レベルしか持ち合わせていない者がどこにでもいるものであり このような輩は勉強というものが 脳内というよりはどこか別な場所に存在しているようでならない せっかくの修行が一瞬にして台無しであり 私がこのようなブログを書くのは このような智慧よりも組織というものを重視する馬鹿を駆逐したいからである
昔はほんとこのようなアホがたっくさんいたのである 今はかなりマシになった 

 元に戻り このあたりの解釈は ②の悟り解脱世界の認識が超重要であり この点無くしてゴータマシッダルタは絶対語れないのである なぜかといえば おわりだろうか? そもそも 悟りとか解脱事態が超曖昧であるし さらに輪をかけて

それら悟り解脱を含め 仏教としての究極の"ゴール"に達するとは 何をもってそれが完成される いや正常に追行されていると捉えるのか? というさらなる言葉の定義が発生してしまうのである

端的に例をあげるなら もし仮に この人は誰もが 悟りに到達した あるいは解脱に到達した といえるであろう意識ステージを迎えたとしよう そして近隣の人はそれを垣間見たとしよう

しかし 教えを説くことは一切せず ただ黙りこくって瞑想しているだけだとしよう このような人をもってして 仏教の理想とする最終ゴールに到達した と誰がいうだろうか?

こうなってくると これは仏教における最終悟り(解脱)を得た人、には決してならないだろう

なぜなら それがどこの誰に認定されうるのか? という場合 実社会的に多くの人を納得させるだけのファクターをもっていないことになるからだ 至極当然の帰結としてそれは仏教において大成しブッダとなったとはいかないのである

例えば プロ野球のピッチャーが啞然とするほどの速球を投げ変化球もプロ野球の選手が誰一人打てない高校生のピッチャーがいたとする しかし そのピッチャーは決して その段階では プロ野球の世界では認定されないとなる しかしもちろん噂はたつであろう

つまりこのように広義の悟りや解脱を得た人 と 仏教世界において大成し悟りや解脱の域に達するという違いは 実社会の誰もが認める信頼感に基づく名声の範囲で 先にあげた広義の人は、仏教の大成者とは決してならず 仏教の大成者としての真のマスターになるには "仏教界において活動して"悟りや解脱をえて 初めて! あの人は 仏教世界の大成を修めそして悟りも得た といえるのだ それはごくごく社会人として あたりまえの 国語の範囲の常識論の範疇でいえることである

そう考えたとき 私がいつもおもうのは 確かに釈迦は仏教の開祖ではあるが相当現在の日本仏教とはかけ離れた存在であり 現在にもし釈迦が生きていたら 現在の仏教なるものを最も意味嫌ったであろうし 相手にすらしないだろうと思われるのである それどころか 仏教を破壊する運動さえ起こしたかもしれないといえるだろう

というのは もともと釈迦とは 人間的にそうだったのだ 確かに自分の口を開き その当時のサドゥー達を集め 教えを開始したことはその通りだろう しかしその仏教サンガが大きくなるにつれ ダイバダッタなどの 組織化派が釈迦に「もっとサンガを組織的に強固なものにしよう 」 というような申し出に徹底拒絶して嫌がったというのは有名な話である
要は釈迦は、それまで自然にできてきたありのままのサンガ形態を重んじていたのである

釈迦が『組織』なるものを徹底して嫌ったのは 真の解脱者としてあたりまえに芽生える感情であり もし釈迦がこの時点で組織化に多いに賛成という態度であったなら 少なくとも私の中で 釈迦の評価は半減する いやそれは私だけじゃないだろう

多少でも智慧ある人なら あれ? とおもうのではないだろうか したがって歴史的にこれほど仏教は広がる事はなかっただろう

インドで発生して クシャン族やいろんな国家に 国家宗教として取り入れられるということは 政治舞台に出る前に まずはその歴史上の各々の国の王が『おぅ~ これは本物の聖者だ・・・敬服に値する』とならなければ 決して仏教がこれほど大きくなることはなかっただろうからだ

その他 原始仏典やシャカ族の王としての経緯から考えて 釈迦なる人物が 今でいうところの非常に純粋な性格の持ち主であり 今でいうなら 誰よりもビジネスを嫌ったことは容易にみてとれるのである

そして 自然の成り立ちを愛し 質素を重んじて 生々流転する物質界への執着をどこまでも否定したのだ 当時は、自分で創りあげた1ヨーガ学派の聖者だったのである 現代の聖者と言われるもので誰がこれに最も近いといえるか? と言われれば 真っ先に私の脳裏に浮かぶのは ラマナマハルシだろう

現在の仏教界がいうところのイメージより はるかにラマナマハルシにちかい存在であり この点において 言葉でゴタゴタ反論する人がいたら その人のお頭は、絶筆の極致でさえ表現できなアホとしかいいようがない 申し訳ないがそういう人は それこそ現在のスピリチャリズムにおける『波動!波動!』という意味を何一つ理解できない感受性の持ち主であること言うに及ばずである
おわかりだろうか?

なぜにこのようなことがいえるのか? といえば 仏教というものが成立したのが 釈迦入滅後100年以上経ってからだからだ
確か?200~500年後 と記憶している
もう ここでわかるだろうか? 教団として宗教化するのに なぜにこれほど長い期間を要したのか?

賢明な人ならハッキリわかるはずだ なんでもないことで それほど強く釈迦は 宗教化を戒めていたのだ 完全にそれだけはやるな! と強く強く禁止していたことが 私には容易にみてとれるのだ おそらく原始サンガにおいてマスターによる強い禁止事項となっていたはずである

そうじゃなければ 釈迦入滅後あっという間に教団は成立し巨大化をはじめるだろう そしてシステム化へと向かうことは簡単にわかることである 当の本人である釈迦が組織化を阻んでいたからこそ数百年という月日を要したといえる 証拠資料をだせといわれてもそんなものはないのであしからず しかしその端切れみたいな薄っすらとわかる兆候は 原始仏典の中にあるので賢い人は誰もがそれを知るだろう
(※ハッキリいうが阿含経事態も私はあてにしていない 経典なるものは当時の権力者によりいくらでも改ざんできたはずであり 究極においては書き物というのは全くあてにならない それより薄っすらと伝わるそれこそ波動がものを言う)

ゆえにいえることは 釈迦そのものの教えと 仏教の教えとはかなりかけ離れているといえるのである

第一釈迦は 他力本願的な教えなど 毛頭といていない 私のブログの基準をあえて使わせてもらうなら 前記事の『静かなる目撃者』の典型的な②のタイプであり 完全自力本願ということになる

それでもその当時の他のヨーガ学派とは違い バラモン教を否定しているがゆえに異種独特であり それが浸透していく過程その途上において 右脳的表現形態は 主に北側へ 左脳的表現形態は南を通し 中国の東側に伝わるにいたる ここで表現形態とは ビジョン系瞑想 と言語系瞑想 という意味であり 瞑想を重視しない流派は省くものとする
いっておくが この伝わる伝搬の細かなプロセスを今ここでどうこう言う気は全くないのであしからず そんなものは火をみるより明らかに 多くの教団、民族、国などなどで都合よく変化しまくったことはあたりまえのことだ

つまり私がいうところの仏教観で押さえなきゃいけない超重要ポイントは 純粋な釈迦の教え と 仏教世界とは 似てはいるが全くの別物であり 現代の若者は 仏教世界なるものは 伝統としてのみ受け取り 後は思い切り投げ捨ててしまえ! ということである

先祖代々受け継がれている 行事やお寺との関係 これは日本人にとって重視しないといけない伝統であり 賢慮にやればいいのであり 子供にも教えついでいくべきである それは日本国民としての義務であり おろそかにはできないのだ

しかし 仏教世界が形成されるに至ったプロセス上発生してきた言われや教えは 全て自分の内的世界からはじき出してしまえということである つまりそこには 今から2000年前のインド周辺部の国々~現代日本に至るまでの 国を治めるための 戒めや戒律その他の言われなどなど おおよそ釈迦とは無関係な戒めや制御が含まれているからである

そんなものは くその役にも立たないどころか 真の釈迦の教えの邪魔にもなれば 高度な智慧の妨げになるのである

 ただ日本の伝統に関わる行事宗教は 伝統であるため家の先祖からの行事宗派仏教は、日本人として粛々と気持ちを込めてやっていけばいいだけのことである これを無視したり強制的に排除する動きは 今度は反日的行為とみなされるだろう つまり今度このような伝統に関わる部分というのは それが釈迦に基づく基づかないなど一切関係無く それは今度日本人としての道徳に関わる領域ということになるため 粛々と伝統はやっていくべきである

 それは神道とて同じだ 実は 日本の神道というものは 仏教が入ってくるまでは 実はシステム的に体を成してはいなかったといわれている 非常に雑句まばらに受け継がれているものが 仏教入伝と共にシステムとして全国的に形を成していったというのが現実のようだ


そしてそれとは別に 純粋な釈迦の教えこそ 自己啓発というか瞑想修練も含めた自分の内的内省の世界で実践していけばいいのである

しかし ここで問題が生じるのが では実際のお釈迦様じきじきの教えとは どのようなものか? といったときに 阿含経に説かれているものだけでは どうしても役不足になるのである なぜならあまりに抽象的すぎるし 現代においてほぼ不可能と思われるような内容ばかりが説かれている しかし本質的な部分ではそのいわんとしている核真はわかるといえるだろう

こっからが いよいよ 私の持論展開となるのだが 私のやり方とは このような場合 さらに原点に戻るのである
原点に戻るといっても 釈迦を完全無視して 即座に古代インドの違う聖者の教えに方向転換しろといいたいのではなく

悟りや解脱というものを もう一段出来る限りのとこまで解釈しなおせ といいたいのである

やはり 仏教が 他のキリスト教はじめイスラム教 道教 ユダヤ教 モルモン教 その他 と違うところというのは 明らかに 神をその終着点に置いていない点といえる つまり神をあがめなさい という帰着点には全く在らず

むしろその逆で 神という存在さえ実は 幻なのですよ それがわかる時点まで意識を高めなさい として それを悟りとか解脱と呼んでいるのである わかるだろうか?

仏教やヒンズー教が 飛びぬけている点は この点をどこまでも強調するのである なぜ強調というか? といえば 厳密にこれは 他のキリスト教をはじめ 世界的な宗教をみた場合 その宗教の宗派によっては 悟りを重視していて その宗教の密教の部分では必ず悟りや解脱を説いているからである つまり厳密にはほぼ全ての宗教がこれを説いている(一部を除いて)
実は 太古神道とて その瞑想法においては神とはただ瞑想状態における 出現するエネルギー領域を現わす名称でしかないのである

 しかし初っ端から 悟りや解脱つまり宇宙実相覚醒を高らかに掲げて 覚者こそ人の目指すべき最終形態だとする姿勢が断トツ強いのが ヒンズー教や仏教といえるのである つまり仏教やヒンズー教とは 初っ端からその思想形態の本質力学事態が 自力本願にあるのである それが見抜けない御仁は それが学者であっても どのような世界的偉人であっても 貴方の現代文読解能力はおわっていますよ と言わざるおえないのである

 こういう箇所に 即座にその本質を見抜く直感は働くといえるだろう
これがわからないものは 相当宗教音痴かこの系統の知識が全く無いに等しいといえるだろう
(元へ)したがって もうこのあたりから 自力本願と他力本願の違いが発生しているのだが この話題は今日はちょっと脇において

その仏教や 広義の意味においてでかいヴェーダンタ系のヨーガコミュニティも含め 『あの人は悟っている』『あの人は解脱している』という意識状態は 誰が証明するのか? というのが一つの大きなポイントになる
おわかりだろうか?
今仮にその 悟りや解脱を現わす意識状態を全て 涅槃としておくと この涅槃に到達している到達していないの認定は 本人がいくらやってもそれは知れているのである
他人がそれを認めたとき 初めて! はじめてそれは この世に公的に『 存在 』するに至るのだ

当然原始仏教において必ず この現象は起きているのである 釈迦自身は その涅槃状態に 人に説き始めるはるか前に到達していた しかし その涅槃意識を人にどのように伝えるべきか? それを考えるとバカらしくなり一人ひっそりとそれに浸っていたのだ
そこに 多分 まず第一の弟子となる サドゥーがものめずらしそうに おそらく これは自分の解釈だが....

「それにしてもシッダルタさんよ 昔、国の王子でもあったし頭も良いだろう貴方がどうしてバラモンの絶対的掟に背くような修行法に走ってしまったのか? あの苦行の破棄は貴方の仲間の信頼を裏切るということは 貴方とてわかるだろう せっかくサドゥの人気者であった貴方なのに なぜにあのようなことをしたのか? それにしちゃ貴方は何事もなかったかのように平然としてますね
鉄則の掟を破っておきながらその自信はどっからくるのですか?」

おそらく その時期に釈迦の周りで様子をみながらウロチョロしていた元サドゥの仲間は そのような質問をしたとしても全然おかしくはないだろう もちろん この質問は 今私が想像しただけのものでしかないが そのような空気観が釈迦周辺の元々の修行仲間に流れていたとしても 全然おかしくはない

そこで釈迦は ある時期 賢慮に質問を投げかけてくる行者に 口を開いたのだろう そういう流れから 原始釈迦サンガーがはじまるといえるだろう

もうおわかりだとおもうが ラマナマハルシとて展開は違うが 足が腐るほど寺院地下の片隅で三昧境に浸っていたマハルシを叩き起こして 口を開かせたのは 他人であり かくまうところからスタートしているのである

賢明で賢い人はさらに この逸話を想起するだけで即座にわかることがあるだろう

そう! こういった「他人がその黙りこくる乞食覚者を気にかけほっとけなくなり 食事を与え適切な場所に運び事情を聴き 驚き打たれていき やがては人を集め教えを説いてくださいと頼むに至る」

この現象こそが ブラフマンの現象化なのである この現象全般がブラフマンの実態であり具現化なのだ

話は元に戻り 私がこの「ブラフマンの呼びかけ」でいいたかったことは、いずれの場合も 他人が"それ(涅槃)"を認め驚き感嘆する状態からはじまるという1点である

しかし 上にあげたる現象は この物質世界の常識論の範疇の言葉で説明できる範囲の描写であり 真の覚者の恩寵というのは計り知れない というのは このように短文で表現できる現象だけでは止まらないパワーをもっている

次から次へと展開されるシンクロニシティで 事態はどんどん肥大化していくのであり それは人々の集合的無意識の世界で強烈なパワーを秘めて人をプラスにもマイナスにも誘い 人をひきつけていくのである

そして『 仏教現象 』という形態を世界に広めるに至るのである

従って あの人が涅槃状態にあるないの判定こそが 涅槃それ自体の実在を規定しているのであり 決して何か特殊脳波計でも使いそれを測り認定されているのでもなければ 国が認める認めないでもないのである
それだけ多くの人が 仏教現象を検討する際に それを認定するかどうかに関わっているとなるのである

従って 原始仏教において 釈迦の涅槃を一番最初に察知したであろう行者(別に一般人でもよい)に もともと超古代インドから面々と受け継がれている 覚者とはどのようなものか? というヒンズー教から全てのヨーガ学派に伝わっているその覚者なる根本雛形がなければ 仏教現象は起きえなかったのは明白な事実であり そういう意味において 仏教とは ヴェーダウパニシャッドも含めた インドのおける広範囲の超古代からの英知に含まれるのである

それゆえインドでは 国家を含めた公のヒンズー教のうちに仏教は含まれているのである インドにおいて仏教徒は非常に少なく 多くの偉大な古代からのヨーガ聖者のたった一人にすぎないが それに含まれるか含まれないかは インドの高名な哲学者の間で非常に厳格な審査をしているはずであり それにかなうため 仏陀釈尊は ヒンズーの偉大な聖者の一人とされているのだ
それ故 数百年~千年以上前に建てられたヒンズー寺院の彫刻の中に仏陀釈尊は彫られているが あくまで多くの聖者の一人でしかない

別にだからといって 我々の信心が変わるものではないが そう考えたとき 昔から今まで ネットが無い時代というのが如何にでたらめな嘘八百が並べられ あることないこと作られてきたか それを考えるとき もう我々は 智慧の乏しい商売屋や権力を振りかざしたいだけの教祖連中に振り回される必要はないのである

考えてもみれば 哲人の国インドに太古から存在している何百何千にもわたる教えのたった一つの教えであるにも関わらず 我々は歴史において 何の関係もないことをこじつけて それをさらに あれやこれや騒ぎ立て 東南アジア、中国や日本においてどれだけ多くの 仏教学派が誕生したか考えてみればぞっとするのである
も~いいだろう いいかげん仏教の宗派をわけるのは飽き飽きであり そんなことをしても何の意味もないのである

しかし逆に別な見方をすれば なぜに東洋では仏教のみがこれだけ多くの広がりを見せたのか? といえばそれを政治利用しようが悪徳宗教家が利用したからと言おうが とにかく仏教系が最も大きく普及したというのは事実であり

 その真因とは そもそも事の起こりが古代インドの王家の王子がその開祖であり 最初の段階からバックボーンに巨大な富をおのずと抱えていたというのがあるかもしれないが決してそれだけでもなくて 教えの本質の純粋さが洗練されていたともいえれば それだけ実在認識を言い現わすのに近かった 優れていた いや それこそが実在といえるからだろう

最も的確な表現をするならば これが仏教現象という究極の実在からの形なのである そう考えると元々なかった他力本願や大乗などのナーガールジュナ=龍樹菩薩なども 釈迦と一心同体であり 釈迦という存在の因が起こした現象であり これ在りてあれ在り あれ在りてそれ在り の面々とつながる仏教界の創造現象となるのであり その最も最初にあるのがたった一人の釈迦という存在であり まさしく偉大な押しも押されぬ世界の大聖者ということになる

ここでまた元に戻り この記事を書くにあたり 最も訴えたい部分をもう一度整理すると

ある人の涅槃状態というのは 何をもって公的に認められるのか? という部分が最も重要であり

・それはまず 一番最初にそれを 認め感嘆する人が表れる そしておそらくその人や3~5番目の人が中心に人を集めはじめる

・次に3番目にその涅槃を認定する人がでると同時にそろそろ その涅槃たるやの規定の必要が生じてくるが 3人程度ではそれは必要にせまられるものではない しかし薄っすらと『規定』という概念の必要性がではじめる

・そして4人集まれば 空気の流れが生じ分裂の危機が生じるということもありそろそろ決まり事が必要になる
こういうときこそ!まさにこういうときには 商売人体質の人や強欲な悪徳権力者は、いつも笑い飛ばしている『波動』を誰より重視して敏感に察知して 組織化に神経質になるのである その変化たるや超能力者とて驚きといえるだろう わかるだろうか?(~~)
こういうところからも 商売優先を叫ぶ者が如何に嘘つきであるか? また悪徳に徹しているかわかるだろう

そう! 彼らとてそういう性質はあるのだ! ちゃ~んと今をときめくスピ系の『波動』を読む力があるくせに 場面が違えば 軽く笑い飛ばしスピ系など馬鹿にするのである そうこれからの若者はこういう隠れた虚の部分を逃してはならないといえるだろう

パサイト氏は、動画で必死に思い出したかのように『波動について』を説明していたが 彼が勉強しなきゃいけないのは、高名な政治家であればあるほど 実は『波動読み』は そもそも大得意で100もわかっているのである 悪徳政治家であればあるほど・・・

この後は ますますもって 本質と組織論の戦いがはじまるのだが あくまでそれはリアル人間関係での話で これにより涅槃意識が変わるものではなく 涅槃意識事態は 永遠に不滅であり それは変化するものではない

変わるのは あくまで 外界のそれに携わる組織人の間での運用面だけであり その領域は 涅槃とはそもそも一切関係なく このようなことは ごくごく一般的な会社の組織運営論とさして変わるものではなく そんなものに 振り回されては絶対いけないのが 涅槃意識を純粋に獲得しようとする人達の心構えだといえる

やっと いいたいことがいえるのだが ゆえに宗教やスピ系組織にこの系統の勉強が振り回されるようなことは、絶対あってはならないのである おわかりだろうか?

組織に振り回されて それも勉強の一つというのは 会社や国や地域の団体や他の趣味でやればいいのであり 宗教やスピ系でこんなことがあるのは 愚の骨頂であり断じて許されることではないのというのは 一目瞭然である

なぜに長い長い 仏教観を力説したのか? それはこれらを徹底理解して初めて ブッダかずひさ を語れるからであり

現代にポツリ現れた ブッダかずひさ を語るにはこれら知識が是非とも必要となるからだ

後 私は、釈迦のアートマン否定という行為の真意を示し その実相をまた記事にする予定である

オールト雲 について ( for twitter )

自称:瞑想家
生年月日 昭和42(1967)年 5月15日 Gmail masam shiver shiverem2017@gmail.com

政治的見解http://penzu.com/p/a319b98c

全ては細分化 | J-Current

https://holism.amebaownd.com/

風玄丸
@javelinskymoon
https://twitter.com/javelinskymoon
これは以前の私です 今は使えなくなったので オールト雲を作りました

今 ⇒ https://twitter.com/hermitregion

 現在50代初頭の私が、もし人に絶対的に誇れる分野があるとしたらそれは『瞑想家』という名称が現わすものだけだろう
そもそも今から約5年前のアメブロでもこの『瞑想家』という自称をつかっていた
そもそも私がこの瞑想家という名称を名乗るきっかけになったのも 今から25年以上まえに瞑想するきっかけになった
今は亡き 山田孝雄 氏に影響を受け @TakaoYamada_bot (※氏とは電話で2度3度話したことがある)
 瞑想世界に首を突っ込んだからである (※瞑想というもの事態は高校時代から気にはなっていた)
現代のスピリチャリズムが発生するはるか前から私は瞑想に没頭していて 一時期はクンダリニーの覚醒なるものを完全に自己流で行い 脳天ぶちぬきをやってしまいしばらく気がふれたかのような時期もあった でも何とか正常に戻った次第だ
いずれにしても私が人に最も誇れるものといえばこれしかないが自信がある
以下大まかな経緯をあげると

瞑想家としての自己紹介 福井県在住52歳

中学~高校時代 時期的にむらがあるが 毎日明晰夢幽体離脱で思い切り遊びまくる そのとき宇宙を飛び回る面白さは今もって忘れていない 明晰夢は次の瞬間になんでも創造できるため自由にいろんなものを作り遊びまくった
明晰夢の世界で遊ぶ面白さをほんとに知ったなら 旅行などそんなに関心は示さないだろう

25歳前後(今から25年前) から山田孝雄の本に影響されて瞑想を追求する

20代後半から30代前半まではその系統の新興宗教(オウムではない)などに所属したこともあったが 数年で全て喧嘩して辞める
でもこれにて密教原始仏教の基礎知識をえる
30代前半は時間さえあれば 毎日ハタヨーガや瞑想にあけくれた 地元のカルチャー教室に通いアーサナなど習う 休みの日などはほぼ丸一日修練に励んでいた

この時自己流でクンダリニーヨーガの覚醒を行いかなり危ない時期を経験

しかし 地道な努力の結果シンクロニシティの圧倒的連続を約2週間経験する

30代半ば バイクツーリング中 飛騨山中で他人や物品を巻き込んだ圧倒的な神秘体験をする

ラマナマナルシのじき弟子で世界を飛び回るヨガの先生から北陸でヨーガの指導を受ける 内容自体非常に高度だとはわかったが、そのときはまだ超能力などに拘るあまり ラマナマハルシを真に認識することはできず40代にいたる

ちなみにこの時期も自分が体験したクンダリニー体験を詳細に認識できる師を探したが 誰一人として見つからなかった
( クンダリニーは精神医学などに収まる範囲のものでは決して無く また性エネルギーを起動するのに使うといえるかもしれないが、いざ起動した後はそんな生易しいものではない)

地道に瞑想を続け50代に至る 密教をはじめこれらヨーガ系の世界追求という道においても類まれなシンクロニシティの連続が起き50歳でニサルガダッタマハラジに深く感銘を受けると同時に 30代からよく誘われたラマナマハルシの偉大さを知る
正直今は ラマナマハルシからの誘いに乗らなかった事を非常に後悔している
それ以来 超能力や霊能力などへの関心がほとんどなくなり これら能力などが全く太刀打ちできないマハルシやマハラジがいうところの究極の実在を求める瞑想のみに集中している

《 教訓としているもの 》

とかく人は超能力者を敬うというのはあたりまえの事実で誰もがしることだけど そんな超能力や霊能力といったものさえチリほどのものでしかないとわかるのが究極の実在の認識であり そのパワーたるや完全に想像を超えている ほとんどの人はその事実を知らないし 例えそれがわかったとて口をつむぐだろう しかしそれを垣間見たならそれは何にも代えがたいロマン・・・ いや人生そのものを捧げたとしても全然足りていないだろう ゴタゴタ理屈を並べるのはそれを垣間見るまででしかない・・・

※↑こういえば人はなんか危なそうな世界であり特殊な人しかそれは発見できないのではないか? そうとるかもしれないがそれは全くの誤解であり 事実はその全く逆であり求める人には必ずその認識は”どこ”からでもくる あえて言うが何も難しいことではなく 現代文読解力のみが唯一の能力といえる どこまでも国語力が勝負であり誰でもこれらをいつからでも認識できるのであしからず 賢慮な気持ちと読解力のみが勝負といえる どんな人であっても!

このTwitterアカウント「オールト雲」では 上記自己紹介であげた今までの自分の様々な体験を通して実感として学んだこと 認識実感した内的直感や事実をもとに スピ業界はもちろんのこと様々な業界を見聞し瞑想家として意見を発信するつもりです
https://innerconf.blogspot.com/2020/01/blog-post_30.html

また そういった瞑想の世界とは全く別として 生粋の日本人として現代政治において如何にしたら日本を強国化できるのか?
真面な自主憲法、あってあたりまえの正規国防軍をもつにはどうしたらいいのか? などもつぶやきます
また 自己流のオリジナル料理やグルメについても発信する

スピリチュアルにおいては このあたりまでは納得だな~ っとおもうような人は積極的にフォローしていきます そのあたりはアナログでいいとおもうし 自分が最も信頼する思想や発言を中心にオールト雲(比喩)の範囲まではフォローして また自分も他の人のオールトの雲でありたいとおもっています

※このアカウントはできる限り本音で語ることを旨としています つまりある程度真面目で真剣だということ
そのような場にポルノ関連のアカやふざけたような人をおちょくるような態度がみえみえのアカ
初めてのDMやリプにも関わず平気で礼儀知らずな態度をとるものはフォロワーに必要無しというのは言うに及ばず
また日本人で自分よりかなり年齢が低いにも関わらず平気でため口を叩くような者も相手にしないのであしからず 
そのような態度のアカは例えどれだけ「いいね」などあっても 見つけ次第ブロックします
もちろん ちょっとしたジョークや遊び心でのジャークはこれにあらず 要は節度の問題

もし少しでも私の自己紹介に関心をもっていただけたなら どうか今しばし貴方のお時間をブログ最初の記事 ☟ これらの見聞にお使いくださいm(__)m もし貴方が賢慮な人であるなら 必ずみえてくる何かがあると思います


静かなる目撃者 

無限性の共謀

https://holism.amebaownd.com/

今 力を入れているブログ
https://innerconf.blogspot.com/2020/01/blog-post_30.html

風玄丸     ・・・・・これは2年以上前の私です このアカウントは今はつかえません
@javelinskymoon
https://twitter.com/javelinskymoon

今 ⇒ オールト雲

※自己紹介において 好きな本や人物など後々追加する場合は この記事にておこないます

瞑想の素

瞑想の栄養素 瞑想の内的クオリア

恐怖のオンパレードとは?

瞑想における内的質感=クオリア これを以下は瞑想の味の素 瞑想の素としよう

私は ここ20年間 毎日ではないにしてもずっと瞑想を日課にしてきた それでもやはり たまにどうしても瞑想においてやる気が継続しない時というのがある いゃ やる気という表現が適正かどうかもわからないところだ

そもそも瞑想とは 自己啓発の1手段という側面もあるため 瞑想がうまくすすまないときはちょっと気分的にネガティブな状態といえるかもしれない

厳密にいえば 瞑想という行為はやる気があっても 内的になぜか 瞑想している・・・という実感にいくらやっても達しないというほうが正確かもしれないということだ

つまり そんなときは 瞑想を進行させる何だかのベースにあるエネルギーが足りないのだ
それが何なのか? 今日はそのための記事といえるだろう

その前に 皆さんは 宇宙戦艦ヤマト波動砲は御存知だろうか? ヤマトの波動砲は ただじっとしていても空間からジワジワと波動エネルギーがたまり ヤマトは船を動かす動力や主砲そして波動砲を運用することができるわけだ
もちろん これは所詮SFの世界だが・・・・

自分は この『 瞑想の素 』たるや これに似ている気がしてならないのである

人間というのは 衣食住に関わることや 生理機能の実行に伴う行為、社会的に絶対的となる義務以外 日本を含めた先進国においては、何事も本人の完全自由でそれ故 上であげたような生活保障に関わる以外の活動の場合は 必ずやる気が必要になる

その 『 やる気 』の中でも 例えばゲームをやる場合など そこにはさらにそのやる気の素となる 面白さといった要素やロマンチシズムといった 内的価値観の動機がベースとなる場合が多い

やっと話すことができるが 当然 瞑想なる行為も この内的価値観というものがベースとなり行動するのであるが ただ 瞑想の場合は ただじっと座っているだけの作業である

さらに 細かく分析するなら これらじっと座って自分の内面をみつめるという作業 と それらによって得られる「気付き」や内的統一感 また超越的な意識 このような目的や結果 作業と目的(結果)にわけられる

もちろん 目的がなければ 作業に全く意味はないのであり どこまでも内的直感や閃き、気付き、意識の変調、潜在意識下の発見や内面のエネルギーの統制 これらが得られないのでは話になっていないわけだ

つまり 私が瞑想の素 と呼んでいるものは やる気とはちょっとちがうのかもしれない

瞑想をやる気があり やるのだが いくらやっても うまくいかない 何も進行しない というときがあるのである

ずいぶん前に このことが意味するものを深く考え続けたことがあるのだが・・・・

今一歩これは 何が原因でこのようなときがあるのか? 結局のところわからないのだが

それでも 薄っすらとわかってきたことは この暗黙のうちに この瞑想の素 となるものは ロマンのさらなるベースにあるもの

ロマンといっても一口に 簡単にわりきれるものではなく これは非常に難しく とらえることは容易ではないのである

少なくとも 1年以上 ほぼ毎日瞑想にふけった人ならわかるかもしれないレベルのエネルギーの違いである

それは 宇宙戦艦ヤマトの波動エネルギーをおもわせるものであり 人間総合エネルギーといったほうがいいのかもしれない

それは 大方変化に富む日常を送るほうが 変化に乏しい日常より そのエネルギーは蓄積されるといえるかもしれないが 絶対的ではなく 変化に乏しい日常でも溜るときはたまるのである

疲れなども一切関係なく ポジティブネガティブも関係しているが そこに本質があるのではなく 自分一人の世界における内的冒険者としてのエネルギーであり 一切定義できないのである
ただ 大方頑張った日や 気分が良い日の方がそれは溜るといえるのだが 決して定義的に絶対的ではないのだ

瞑想の栄養素 瞑想の素 そのような何かが確かに存在していると思うのは私だけだろうか?

一ついえることは あまりにも心がドライな時は瞑想はできないし またあまりに精神がシラケムードのときも瞑想はできないが そのようなときは 最初から瞑想事態おこなわないだろう

そういえば 確かに 精神が乾きすぎているときは瞑想できない としか表現できないが これは少し関係しているかもしれない
大方これには 5元素の水元素=水エレメントが関連しているのだと思われる 意識に潤いがないのである
よってこの状態の違いを深く観察することで 水元素がいかなるものか? という5元素の認識につながるだろう

とにかく いえることは 瞑想という行為も 生き物と同じように 栄養素が必要であり それは 明らかに日常が関係していて その日常において 喜んだり怒ったり 悲しんだり笑ったり これらが適正になされるほど 瞑想の素は増えるのである


しかし これらが絶対的に必要か? というと決してそうではないというのは そんなことをいえば 山に一人で住み 仙人みたいに修行する人はこれらが充電されない となってしまうからだ

よって そんなことはないのだが 何かしら このエネルギーは 実在からのご褒美みたいに充電されるようである

この 瞑想の栄養素 瞑想の素なるものは そんな神経質に考えないといけないほどのものでは決して無く

数か月~1年以上 瞑想を日課とするなら おそらく誰もが 薄っすらと感じる程度のものである

人によりそれは 今日はちょっと集中できないな~ でおわるものかもしれない

しかし私は これらの実態が何なのか? これからも観察していくし この正体をつきとめたい とおもうのである

瞑想を日課とする人で これをうまく言える人がいたら 是非とも教えてほしいものだ

瞑想がうまくいくときは 気付きが鬼のように押し寄せるが この瞑想の素が不足しているときは 間違っても気付きも得れないのである

 パサイト氏の動画で 『 根拠の無い自信 』という言葉を ぱっさんはしきりに発言していたが これとちょっと似ている要素がある

それは おそらく 誰の中にもあるであろう 根拠が全くないけど内的実感として感じている内的なロマンがあり 確かに氏がいうように 人のうちにありそれほど強いものは無いのである

おそらく それは実在からの実感であり 今生において形態としての自分を成り立たせている大本からの響きであり

その内的な実在からの形をまとった響きが不足しているとき瞑想は不可能となるのかしれないのである

そう捉えた場合 その瞑想の素が不足している時間というのは 実在との接触が薄らいでいる というよりあえて実在がそうしているともいえるわけで 簡単にいえば そんなときは 瞑想しても意味がない時ということだ

そういうときは 瞑想世界とは逆のことをやるべきなのである それはまさに的をえていて

瞑想世界追求者は それを知るべきというのは ラマナマハルシに次ぐジュニャーニヨーガのひじりである ニサルガダッタマハラジも このような状態のときを本でさりげに現わしている

魂の長い長い修行期間という生涯においては 例えヨーガを実践する者でも 時期的に逆に魂から遠ざかる旅にでるときがあるといっている箇所が見受けられるのだ もちろんこれは長期的スパンを意味するのであるが

おそらくこれは 短期的スパンにもありえることが予想される それはおそらく 理論的 内なるシステム的 エネルギー的に あるいは霊的に 神経質になりすぎることを阻止する働きがあるのかもしれない いや ほとんどそうだろう

これはそもそも『神経質』という漢字をみてみればわかることで 神の経路に敏感すぎる状態を現わしている ではその神とは何か? 人格神である 人格をまだもっている神に敏感すぎる とはどういうことか?

宇宙全ての実相を現わす実在ではなく 人格に敏感になるとは 会社で上司にビクビクしている姿を現している

そんなんでは 瞑想を極めるそもそもの大前提がオチャラとなるだろう 瞑想を目指すものは 特にA型中心社会の日本人は必ずこ
れに陥るのである

 そして 二言目には 意図も簡単に言葉に引っ掛かり『波動がどうこう』『低級霊がどうこう』『エネルギー
が下がった』などなどそれはそれは 

恐怖のオンパレード

になってしまうのだ

必ずこれが待っているのだ 必ず! こんなことが気になってきたときこそが 瞑想の素がたっぷりあるにも関わらず 瞑想から遠ざかっていると知るべきといえるだろう

いや これは実際ほんとそうなのである もはや この状態においては 貴方は次から次へと不安を実態化させるだろう

考えてみればわかるが ラマナマハルシやマハラジがこういったことを言うだろうか?

ちょっと考えてみればわかるが 釈迦をはじめこれらジュニャーニヨーガの聖賢達も この世界事態さえも全くの幻であり 夢のようなものだ と認定しているのである 目の前にある机さえ 実はそうだといいきっているのである

ということは、『波動がどうこう』『低級霊がどうこう』『エネルギーが下がった』などというような希薄性の強いものは 次の瞬間に意念の力でどうとでもできるものだと悟ることが重要であり 実際どうとでもきるのである

しかも こんなものは 瞑想が深まれば深まるほど たった一発の念で簡単に吹き飛んでしまうことがわかるはずなのである

結果からいえば 自分以外の客観的霊 波動 邪念 生霊 エネルギー 気 その他の形象 これら全てなぜに今まで全人類的に統一されることがないのか? ここを冷静に考えるべきといえよう

この記事を読んだ人には是非これをお勧めする → 心がけ、方法論や修行論において何からしらの規制的恐怖が沸いてきたなら

上をゆくゆく考えてみることをお勧めする それらは貴方がそれを信念体系に組み込まない以上全く存在していなく実態もないのである
これは私の意見だが 逆に自分の信念体系に組みいれた世界観は 現実の物質世界にすら存在してくるということである
最近は、実はこの領域に 輪廻転生 が存在していると悟ってきた次第だ なぜに 輪廻転生 なるものが あるようでないようで

未だその社会的にその真偽のほどは 完全に明らかとはならないが しかし一部では完璧なまでに明らかなこととされている

実は ニサルガダッタマハラジは この点さえもちゃんと名言しているのだ

それが信念体系の中に確実にある人にとってそれは 現実的にあるのである また世界はそれがあるかのごとく展開されうるといえる しかし人は厳密にいえば 非物質世界の存在認識と物質世界の存在認識 は絶えず変化していて これが完全に一致している人などはまずいないのである わかるだろうか そうなると それが物質世界に反映され現実となり揺らぎが生じるとなるのである

今日の記事は ちょっと内容が違うため このあたりにしておくけど 今度これについてはテーマを設けて徹底して訴えたいところである

おそらく こんなこともわからないようでは 内面と外界の完全一体化というシンクロニシティの連続 → それがあたりまえ という世界はこないといえるだろう

我々が幼い頃 禅の高僧は こういうものを ただ一言『魔境』と呼んで そのような知覚領域は、速やかに通過せよ の一言のみで終わったものだ 今の私も全く同感だとおもうまでだ

そもそも 道元禅師の永平寺で おかしな反応をしたら禅のお坊さんが 後ろから棒でバシンと肩を強く叩くというのは こういうのを邪念として活を入れるという意味さえあるのであり このようなものは一時の錯覚だとみなしてしまっていいのである

( ´∀` )そもそも例えスピ好きな人の間であっても「波動!波動!」などといいだしたのは いつからだろうか?
ほんの10年~20年前の 江原啓之 が社会に登場したころからじゃないだろうか?

ヨーガだけに限らず 宗教家や信者 スピリチャリストなど この道に通じる人は数多い こういう人が陥りやすいものの中に

『それをやるとネガティブになる』『低級霊にとりつかれる』『エネルギーが低下する』『波動が下がる』『・・・・』

などなど 真剣にやるがあまり その道を追求しない人からみるとおかしなことを言いだす場面は多くなりがちだ
それは もう 完全に滑稽でならない

私は 過去オウム事件以前 つまり20年前からずっと瞑想修行にあけくれてきた よってこのようなことは全て迷信であり
全く気にとめていない しかし他人の中には こういった事で気がふれてでもいるかのようになっている人をみたことはある

それをわけるのが おそらく 瞑想の素 の不足という 実在からの休息期間のメッセージにあるのではないだろうか?

つまり瞑想することにその栄養素であるロマンが足りていないときは 思い切り欲人になって 非物質世界への囚われなど忘れてしまうのもまた修行なのである

 そんなとき人は まかり間違っても 波動が下がった とか 低級霊にとつかれる とかいわないのである それが証拠に 低級霊がウヨウヨいそうな居酒屋には 笑っている人しかいないし 誰もそんな世界のことは気にしていないのである

それこそが 真のグラウディングであり その 瞑想世界から離脱する旅と また戻り瞑想世界に没頭するその振幅こそが 真の実在認識に至る鍵だといえるだろう

実はこれが 修行の飛躍的進歩につながるのである ゆえに ニサルガダッタマハラジはいうのである

『 貴方がたは 今こうやって私の話を真剣に聞いているが 全て忘れて遠くにいくこともあるのだ それはおのずとそうなる なぜか人は 魂追求から離れる旅をしたり魂の修行に関心をしめさない時期もある 』

と・・・・ つまり今わかることは マハラジはこれらの表現でどこまでも不思議な実在の実態を現わしているのである

それゆえ 未来を占うタイプのものはそれをやった瞬間から厳密には全て外れることをいうのである つまり実在とはどこまでも法則性を嫌い 天邪鬼でもあり 天才を超える役者だということの戒めでもある

つまり 刹那における相関関係のつながりという膨大なストーリーをつくりあげ 時間軸でそれを展開しているにすぎないのだ

つまり 占いを行った者 また占いを受けた者 それらの意識にある内容がものの見事なストーリーになるように 当たるようでもあり外れるようでもあるように現象宇宙の相関関係が動いていくのである もちろんそれら当事者の誰もがびっくりするように、事実は小説より奇なりという現象が一瞬単位で動きはじめ ついには丁度良いあんばいに結果がでるのである

つまり いえることは 占いが当たる当たらないではなく 占いを行って何かしらを感じたという瞬間の動機が未来をつくるのである したがって 未来をみるタイプの占いとは当たるはずが無いといえるのである なぜかといえば それら占いをしたという行為や感想もかなり強く現象宇宙に反映されるからだ

話は 魂追求の旅に戻り、こっからが私の持論だが シンクロニシティの連続体験とは これらの"旅" をやったほうがそれを実感する領域までいきつく修行効率は強まるのである 実在の真の姿とはここにこそある といえるだろう

実は 実在を求める=霊性修行 それそのものの中に矛盾があるからだ もちろん瞑想も含めての話である

実在を垣間見るか?否か? のこの究極のゴール以外のプロセスは 実は全て平等に働いているからなのである

現実物質世界 = 瞑想における内面世界 この域に達するまでの間において 人はスピに目覚めていようがいまいが同じといえるだろう
宗教に没頭する、スピ系としての心構え あるいはその真逆の生活 そんなものはただ単なる趣向性の問題でしかないとなるのだ
あえてその能力的なことをいえば 超厳密に超聡明に意識を世界を観察し続けられるか?どうか これのほうが重要といえるだろう
いくら 霊性を極める修行をやろうが スピに邁進しようが 人間であるからにはさほど違いはないのである

もちろん 私は実在を認識する と宣言しない以上それは永遠にこないし スピを勉強したり 修行したりするのは何だかのメリットはあるが その長期的修行過程においては 霊性修行ばかり邁進するというのは明らかにそもそもがおかしいのだ

また『 いや 私はオーラさえみれるようになればいい 悟りの世界には興味無し 』という人がいたとしたら その時点で 実在はほぼ50%の確立で こういう人こそ 生霊の恐怖というのを実感させるべく動きはじめるかもしれない(※ジョーク)
でもそれは 細かい点ぬきにして必要なものが自分の現象世界に現れるという点からいっておかしくはないのである
つまり上のような人には、その人の潜在心理が元になり その歪みの補正をその人が構成するということであり 学習がおわればそれまでである
もちろん 生霊などというものは 必ず恐怖が原理となりそうなるのでありそこに実態は何も無い 全てはその人が作り出したものである

よって 瞑想修行なるものは もちろん毎日やってもいいが やる気がおきないときは そんなものは忘れて欲人としての日常を思い切り送るのもまた必要なことである 瞑想において そういう期間を設けたほうが明らかにロマンエネルギーが溜り 効果をあげることがあることは確かである

(※ ロマンとは世界や自分自身の未開の部分へ向かおうとする最も深くにある冒険心)

友達

実は 今1分前まで! 次の記事のタイトルを何にしようか? 迷いあぐねていた
様々な概念が意識をよぎる しかし今一歩 閃き が起きない
前回の記事 無限性の共謀 はいってしまえば究極のゴールへの表現だ ここは一旦 記事の内容とはいえ日常に戻る必要がある
それで想いを巡らし ブッダかずひさ の動画や彼の twitter などみていた
今自分が記事の題材を考える場合 最も訴えたいのはもちろん 究極の実在 をどう認識するか? がこのブログのメインストリーム ではあるものの ブログ とはそもそも 日記 である もっとラフに考えて 日々の心境をつづればいいだけのことだ
それで 今気になっているブログの題材を 列挙すれば 「 瞑想の栄養 」「 友達というものについて 」「 神経質と豪胆 」「雷について」「詩の有効性」「瞑想時のボディ」その他いろいろあるのだが 今 このブログで最も重要な「 究極の実在をどう認識するか 」 これらに想いを寄せてこれらを考えていたとき ふっとまた認識に次ぐ認識が起こり 自分が友達という存在に愕然とさせられているという事実がこみあげてきた 単純にいって上にあげた これらブログのタイトル候補をみたとき 今最も精神に響くのは 友達 というものであり なぜ響くのか? を吟味したとき 湧き上がってくる想いとは 自分はいつもそうだった という認識である
それで なかでもごく最近私のリアルの友達において いつも感じている やりきれなさ を取り上げてみようと思ったわけだ
正直なところ 今日あげる親友といえるこれら友達に自分は無意識において傷ついているのかもしれない

これを考えたとき ブッダかずひさ の動画 年越しライブ2019-2020 は私にとって非常に考えさせられるものがあった
もちろん 友達 という箇所についてである

私は今現在 50 代初頭だ そしてリアル世界の男児の親友は二人いる 二人とも同年代の小学時代からの仲であり地元の幼少期からの友達ということになる でも多分お互いの「親友認定」は20代後半ぐらいからだろうか? まぁ週2ぐらいのペースで飯でも一緒に食う仲であり その時に最近の出来事や楽しみまた不安など話しあう仲だ もうかれこれその様式というのは20年は続いている

どうだろう? 今リアルの友達はいない という20代30代は多いと聞くが そうみた場合私はめぐまれているかもしれい
もっとも その 親友 となるに至るのは お互い絶交するような喧嘩なども経た結果 気が付くと親友と呼ぶにふさわしい状態に至っていたということであり 意図してそうなったわけではない

そして当然のことながら 今では、お互いの 違い をより詳しく ハッキリ と認識しあっていて その範疇においてほぼどんなことでも話せるわけで まぁこういうのが親友なんだろう という点で間違いはないとおもう

しかし・・・ こっからが本題となるわけだが 確かになんでも話せるのは事実だが こと50歳以上の男児ともなると 拘っているジャンルが明確に違うことが お互いハッキリ自覚しているのであり その点において たかだか2人どうしの お茶 の時間であっても 話の内容の分捕り合戦なる葛藤があるわけで やはり気をつかわないわけにはいかないのである

 神秘的なことに無限の関心をよせる私をこの親友達はもちろん自覚している そして 親友ケム と 親友キヨ と仮に現わしておくと ケムは彼自身神秘的なことにかなり関心は強い でもキヨの方は 私の年代としては、ごくごく標準的な感性であり 人の心 についての会話は好むが スピリチャルなどに熱をあげるまでにはいかないのだ
今日は 主にこのキヨについての話になってしまう 彼は どこまでも昔から人の心のありようにうるさく いつも社会で傷つき私に救いを求めてくるわけだ 実際つい3日ほど前も キヨのおごりで飯を食ってきた
まぁ もし彼を第3者の立場で知ることとなる人がいたなら 私に キヨは貴方をただ自分をなぐさめるために使っているだけだ というかもしれないほどである
 確かに それはいえている一面がある しかし決してそれだけではない というのがハッキリとわかる点は 私は彼のその強力に標準的スタイルを友達として尊敬し 彼から学ぶこと過去も今も多いのである
 私は過去 幾多の会社が合わず転々としたり 人間関係をこじらせ退社したりまた 若いときは喧嘩に次ぐ喧嘩をしていた
よって若い頃は、何をやっても中途挫折になったりの繰り返しで己を悔いていた しかし彼は1つの会社にずっと務めあげ また我々の年代においては 誰もが認めるような良質なサラリーマンであり 趣味なども我々の世代としては 標準的に誰もが認める生活を送っている また友達や知人も私より断然多い ごくごく標準的良質な一般日本人であり 会社ではバリバリ営業の仕事をこなしている
 また 過去において私が有頂天になっていきそうなとき 強く諫めて私の暴走を阻止したり 今まで人の繊細な感覚というものを私のプライドを損なわないギリギリの範囲で細かく導いてくれていることを実感するのである
私は どちらかというと極端なものを好んだり豪胆であったりしたため 彼の諫めが私の社会での人間関係に大きく役立ったことは間違いないわけで 彼から得ている恩恵はものはすごく大きいのである
 それで私は その恩返しというわけではないが、彼の会社での悩みを聞いたり また会社での立ち回りを指示したり 会社での出方のアドバイスしたりするのだが 私が彼にできる範囲の最も大きなアドバイスは 神秘的なスピ系の悟りによるわかる智慧を彼に伝えたいとおもうのである つまり一般的に 会社での人間関係上の心理戦や処世術といった 知恵や出方ではなく そんなものより比べものにならない スピ系の悟りにより得られる智慧を恩返しに教えたいのが本音にある

ところが!どっこい! これが難しいのだ なぜかといえば キヨは 心は重視するが 神秘を理解する認識力をもちあわせていないのである (^_-)-? 非常にそれが厄介であることは 明々はくはくなのである
しかし 今の私が彼にできる 最大の恩返しは それをやってこそ誠意があるし 実際最も私が彼にできる貢献とはそれであるにも関わらず それは至難の業である

ほんと 私はいつもおもうのは 日本の全スピリチュアル系のマスターを名乗る人達に できるなら彼に神秘の扉を開けさせる方法とはどのようなやり方があるだろう と聞きたいものだ とおもうくらいだ

 最近はそれでも ほんの少し私を見る目が変化して伝えやすくはなってきたのだが・・・まだまだだ
実態をいうならば 彼は ほんといつも良識を手に携え 人の心配りを絶えず観察しながら会社で営業マンをやっているのだ
成績もよく 今度は会長から経理の監視役を任されるほどだ それはひとえに会社の上役の人達が 彼のその人としての細やかな心遣いを悟ってのことというのは言うにおよばずだ
昔から キヨは 人の心を重視し 言葉には最大限の注意を払っていて その点において非の打ちどころが無い 当然そうであるから 昔から私へもできる限りの気をつかい 私が嫌がることはよほどじゃなければ言わないという手法を私にとっているのがありありとわかるわけだ
 それゆえ 彼は昔から『 普通 』の感覚という名の看板を最大限盾に使い 物事を判断している その精度たるやリアル世界では、100%といえるほどで非の打ちどころがないくらいだ
しかし私が認識している 彼の内面世界となると話は別になってくるのだ スピ系に熟達している人に一発でその真意を伝えるなら 彼のタイプは 前回までのブログ記事であげた①である 完全な典型的①である 全く①の代表格といっていいタイプである
当然 他力本願などという単純な概念だけでは収まらず 非常にセンシティブであり複雑ではあるが間違いなくタイプとしては①タイプなのだ よってこの部分で①がわからない人は 前回までのブログをざぁーっと読んでもらいたい次第だ

 したがって今まで 私と彼のたがいの人生の要所要所で 私は 本を勧めたり また若い頃は 密教の真意を教えようと試みたり あるは 今までいろいろやってきたが 効くどころか それによって喧嘩になったこともあるほどだ
もちろん 50歳も超えた現在に至っては そんな露骨に教え込むなどということはないが 若い頃は一か八かダイレクトに教えようとしたこともあった

いゃ~ これはほんと 結果的に私という人間の核真に迫ることにつながるかもしれないほど 今まで意識の片隅にある内容で 私の社会観察の1角をしめているのかもしれない
どれだけ いままで彼に これを伝えるにはどうしたらいいか? 頭をつかい続けてきたかもしれないのだ
なぜにそこまでするのか? とおもうかもしれないが 最近になればなるほど 彼の悩みは ここがわからないがために起きていることは明々白白であり 厳然とした事実でわかるからなのである
実は 彼だけではないのである 私の父へも同種の想いにかられることは多い

 彼は 徹底的に心を重視するのだ (^^) わかるだろうか? これ ほんと彼は 人への親切心や心配り その他 人情や良識などなど 一般にいわれるところの 人道、道徳 を徹底的に拘り それが欠如した人をみると 怒りに手を震わせるほど 良心的であり 人道主義にあふれている そしておそらくそれこそが 愛 だとおもっているだろう もちろんこの場合の道徳とか人道というのは 最低限の礼儀なども現わしているが 決して形式的なものではなく心根の部分の話である

そして そして! いよいよこっから切り込んでいくが 神秘的なことや スピ系がいうようなことは 本質的には、オカルトの幽霊の世界の話だと認識しているのである 笑っちゃうでしょ? 少なくも 観の鋭い人は私が訴えたいことがよーくわかるはずだ
その彼の強力極まりない 倫理観は 何に裏うちされているか? わかる人にはわかるはずで それは唯物史観にあるのである
そしてその意味するものは 言語野を通して構築された 正義観 人道観 道徳であり どこまで頑張ってもそれをでるものではないのである どんなに頑張っても!
どうしても そこから一歩踏み出すには 神秘観 が必要なのである そう スピリチュアルでいわれているような世界観がどうしても必要になってくるのだ つまりは 前回までの私のブログで言っている ②タイプの世界観である
もうそれは 親友である 私には 目の前のコップより確実であり ありありとした現実でわかるのである
どうだろう 読者は このあたりどうお考えだろうか? ・・・・・ う~ん それなら 冷静に説いていけばいいんじゃない? そういうかもしれないが!

それがどっこい そうはいかないのである なぜなら それは過去に私は かぎりなく冷静に ゆっくり理をとく形でそれを準備して それを実行しているのである おそらくそれは誰がやっても彼には通じないというのが 今私の見解だ
というのは 最近わかってきたのは 時間がちがうのである

 彼と私の時間が現実に違うことが 今の私の悟りである もちろん二人が空間を同じくするこの3次元物質界の時間は全国共通でいわずとしれたことだ しかし 彼の意識の時間は厳密には違うというのがみてとれてきたのだ もっとわかりやすい言葉でいうならば 彼の意識を構成している時間周波数とでもいうべきものが違っているのである

 つまり 私の主張の その神秘学を 認識できるだけの 意識の中の時間周波数に幅がない というほうがいいかもしれない
とにかく その 一般でいうところの神秘世界観の認識を得るまでに彼の関心は時間的にもたないのである
最初私は それは彼が内心 私をみくびってるからじゃないか? とも思っていたが どうもそれは違うことが最近ハッキリわかってきたのである
 また別な言い方をするなら 私が 彼の世界まで時間周波数を同調させることができない ともいえるかもしれない
とかく 前回の記事からわかるとおり 私はスピリチャルや神秘学に関心大 というより目指すものがそこにあることがわかる人間だ その私が 自分の中核を占める この分野の話は そのほとんどを彼にできないという結果にいたるのである もちろん それでも親友ということもあり 近況報告という部分では 「これは おまえがあまり関心を寄せないスピ系の話だけど・・・・」という具合に さらっと話すことはあるが そのほとんどは この点において楽しみを共有できないでいる
そればかりか 40代半ばにおいては それで喧嘩をしていいあったことさえあるのである

それを考えるとき ブッダかずひさ が 動画 年越しライブ2019-2020 で言わんとしている 友達 という定義はずばり的をついていると思う次第だ ブッダかずひさ 氏は 友達をもたいない主義をいっているが 私もある種似たようなもんだというのが実感だ
いつもおもうが 結局のところ私が最も売りにしている このスピ系の話題ができない というならば 何のための親友なのか? と首を傾げることは 実際多々あるものだ
 しかし 事態はまだまだ複雑だ ほんと現実は、小説より奇であり神妙極まれりといえるのは 先にあげた 親友ケムの場合である
 この親友ケムの場合は キヨと違い ある程度 タイプ②としてのスピ系の話が理解できる頭をもっている友達である
しかし このケムの場合は これまた今度スポーツマン精神も旺盛であり 理解できることはできるのだが 話がいい線まで煮詰まって いよいよ真意にさしかかるつい目前において いつも拒絶反応を起こしてしまうのである
そして こうつぶやくのである 『そういうの考えるのはいいけどさ~ ただ世捨て人みたいになったらおわりだぜ』 と
わかるだろうか? 最後の最後のギリギリの臨界点手前で これまた『普通』が顔をだし 一気に話はスタートに戻ってしまうわけである
 つまり 私にはありえないことが 最初からケムの認識論にはあるのである
例えば 私は実相の世界追求には 全くの白紙状態から 神秘を追求するのに対し ケムはそうしている部分もあるかもしれないが 半分は 自分はどこまでも普通の感覚の一般人であり その路線で可能な限りの神秘をみてみよう! これがベースにあるのである おわかりだろうか? ありえない発想をしているのである 神秘追求というのは 冷静な観察視点として物事の判断基準を一旦白紙に戻して 物理学的に絶対偏りのない分岐点0からみないといけないはずだ ところがケムは少しはそういうところもあるが なぜか無意識の部分で 途中からは常識とか普通というものを基準にみているのである 私がその点を戒めようと そこをつつきはじめると 話が深みにハマることを恐れて 普遍的常識を盾にとり激しく抵抗しておわるのである
まぁ単純にいえば そこまで神秘に興味がないのかもしれい 是非も無しである
ちなみに 私は 世捨て人になれ などと一言たりともいっていないし そうとられるような事は話していないにも関わらず・・・・

そんなこんなで ほんと私にしてみれば 親友とはなんぞや? と過去においてはよくイライラしたものだ

最も私は 人の自由はどこまでも尊重していて 理解する気の無い者は それに気づいたときピタリと話はおわるのである
もちろんこれら親友とこの系統の話でこじれかかると 自然を装いその都度おえている
またそこまで話が煮詰まってくると 大概においてケムの場合は 彼が自身が神秘的話題より好きな旅行の話に話題を転化するというのも多々あるである

まぁ最近は諦めて そういった親友との話題における現象自体 私の世界観察とて勉強にしているのである

ほんといつも 親友とはなんぞや? とおもうこと多々あるもので 彼らにしてみれば おそらく私が話そうとする濃密な領域というのは 怖いのである そこは開けてはいけないパンドラの箱であり それを開けたら最後と勝手に思い込み そう決めているため その部分の話はうざいだけと思っているのである 全く具の骨頂以外の何物でもないのである
なぜなら 私という人間とつきあう価値は実はそこにこそあるからである
(※この二人どうしにつながりはない あくまで私とは各々1:1のつながりである)

ほんと最近は その原因がおぼろげながらみえてきたのは先にあげた 内的時間周波数 だ しかしこれをいえば話は 前回の記事に戻ってしまうため あまり長くは話さないが つまり私は ワンネスの観点からいえば 彼ら親友という幻覚をみているのである
もちろん彼らからみた私もまたそうである こういった中にも神秘は隠れているのであり それ故 内的時間周波数 といっているのだ キヨやケムは丁度良い具合に このほんのわずかな内的時間周波数の違いにより 今世において出現した私の別な側面なのかもしれないとおもうわけである 非常に難解な言い回しであるが さらに厳密にいえば 彼らは私が最も伝えたい濃密な神秘学の部分を 避けているのでも 理解できないのでもないのである ここが重要で 実際には私というコアに接触していないのである
内的時間がそうさせないでいるのである つまり私は そこにこれまた 宇宙の神秘を感じているのだ
どういうわけか 表現に困るが 内面にある時間がかみあっていないのだ それの意味するところは 厳密には違う時空の住人ということだ 少なくとも 意識を基点とするならば まずそれなのである
それがゆえに いくら親切丁寧に 話しても 言葉や理屈では 実相の深部に近寄れば近寄るほど矛盾が生じ かみあわなくなるのである したがって私は 最終的には これが夢の世界だと認識するに至るのである
昨日の記事で挙げている『原因』や『本質』というものさえ意味をなさなくなる 絶対実在の影がおぼろげながら こんな場面にもでてくるのである

話は元に戻り ここまでは それら親友の視点から描いたが 今度は私の個人一般としての感情論からいえば ほんと残念極まりない話である
別にこれら 私がそれら親友に話そうとする パンドラの箱の部分は それら親友がよりよくなるようにするため 無償の奉仕で話そうとしているのに 拒絶するわけで 実際はもし話すことができた場合 後は本人がどうそれの知識を処理するかまでは強制しないわけで どこまでも自由なのである 私にしてみれば全くもって話すだけなのだ

しかも ブログを通して話すのとは違い それら親友との間のこの系統の話は その親友や私の出来事を元に話せるわけで より現実的に様々な具体例や共通する体験を通して 神秘とはいかなるものか? というのをどんな本より具体的事例として生で話せるのである
そして話しきってしまえば 私という人間は 決して人にものを強要したり自由を奪うことはしないわけで 話しおわったらそれまでなのにも関わらず いつも肝心なことを聞かずに 話はおわるのである
そして どうでもいい くだらい話を喜ぶから始末に悪いのだ

そこで私は いつもおもうのは ブッダかずひさ氏 が 年越しライブ で主張している友達観 というのは断然的を得ているとなるのである
ほんと 親友とは神妙であり 私のこの ケムとキヨからわかる通り 例えば スピの話が話せたとしても 今度はこのスピの広大な領域において 必ずそこには 違いが表れてきて その観点において意見が合わなくなるのである
おそらく 最近の20代30代はそれを最初から察知しているが故に 友達はつくらないのであろう
それらの事実がわかってくると 人間とはほんとどこまでも孤独なものだとおもうまでである
変な意味ではなく 人間は究極には友と 心底一切の違いを超えて一心同体となれるということは無いという結論に至るからだ
そう考えると 今私は リアルの世界より ネット上の方がさらに深い同性の友がいるようでならないのである

ゲーテ格言: 愚者も賢者も ともに害はない いちばん危険なのは、半端な愚者と半端な賢者である

Sudha sings the Moola mantra at Peace in the Park

黄金時代へ ウパニシャッドの精髄ムーラマントラの意味と意義

 

無限性の共謀

人間観相対性理論

前回の記事『静かなる目撃者』は 久しぶりのブログということもあり 非常にややこしくまどろっこしい記事となった

前記事は 本来言い現わすことが非常に困難な 気づきに次ぐ気づきにより形成されたイメージを無理やり文で表現したのだが、1文1文読んでもほとんどの人は私が表現したい真意をくみとれる人は少ないかもしれない 是非も無し・・・・ 

もう一度軽くおさらいをいうなら それはいうなれば 自力本願と他力本源の無意識におけるパワーの流れと またそれらを川だとするなら それが無限の大海という絶対実在から流れこみ どのような”立体形状”を構成するかをいいたかったのだ あえて3Dの立体形状と表現したのは ある1面だけをみても全くわからないからだ
しかし わかる人にはわかるだろうと思われる どこまでも『性質』というものの原因とそれが辿り着く結果を 1つ1つみていく必要がある
例えば
前記事における 人が抱く宗教観の目指すゴールに向かおうとするその手段的信念体系を ①他力本願におく人 ②自力本願におく人 という設定において 次のことをよくよく考えてみよう

・なぜか ヨーガのマスターというのは 中年の小太りが多く かなり高名な聖者ですら 腹がまるで狸のようにでている ・・・A
・なぜか 奉仕活動を熱心にやっているのは ②の団体や個人より ①の方が多い これは実際昔からよく聞く話だ ・・・B
真言密教の正式な僧侶は かなりスナックに通ったり街で女遊びすることはよく聞く話で また偉そうなのが多い 実際 昔の密教の僧侶はそういう人が多い
 この部分は禅とて同じだ 実際問題 ついこの前も 総合病院のキリスト教信者の医者は、②タイプの身分の高い人は偉そうで惰性的だから嫌いだと話していた
 ・・・C
・①と②が 宗教実現の方法論の優劣の会話をした場合 現実的には、たいがいの場合において①は 最終的には②の方法論が優れていることに同意する 
 方法論においては負けを認めるパターンが多い ・・・D
・①タイプの人の方が プライベートとそうじゃない場合を厳密に区分けする度合いが強い また約束や言葉上の定義に際限なくこだわることが多い
・これはとくによく見かける事象だが ①タイプは 物事の展開が普通とか標準から少しでも離れると とたんにオカルト的な評価をくだす傾向が強い
 実際問題 キリスト教系の信者は ちょっと奇風な人をみると 悪魔を持ち出すまでさほど時間を要しない 勉強が足りない人ほどそうなるのに時間を要しない
・①タイプは ②タイプが驚くほど 信仰対象を神格化させ唖然とする場面がよくある 一方②タイプは平気で信仰を裏切っている場面が多々みられる 
 それでいて平気な顔をして笑っている
(※前記事もそうだが これら①、②というのは 自力他力に的をしぼり 典型的な信仰体系だけをあげているのであり 現実の信仰とは①と②が入り乱れているのが普通だし、実際現実には、さらには非常にセンシティブで複雑怪奇なのは 言うに及ばずだ もちろん自力他力の判別以外の多大な要素が入り乱れている ①②とはそういったリアルの様態から典型的要素を抽出してまとめているにすぎない)

その他まだまだあるのだが このあたりにしておくとする 上に示すのは 今まで瞑想家として②に拘って思索を重ねてきた私個人の体験であり明確な証拠はどこにもない つまり人によっては それはあんたの主観でしょ? で終わる話なのだが 私は過去この部分は熱意をもって調べてきたので自信がある

また 重要なのは 一般相対性理論ではなく 人間観相対性理論とでもいうべきで ②である私みたいなタイプにはこのように映るともいえるのだ(この点も重要)
話は戻り 上にあげた これら諸々の現象をみて 貴方はどう感じどう思うか? で終わるべきじゃないといいたいわけだ

普通なら 感受性豊かで宗教観も豊な人なら上のような①②おのおのの性質をみて思うことは 『うん! わかるわかるそうなんだよね でもそれはなるべくしてそうなってんじゃん』 と1個1個の真因なら納得しても その全体性をみようとはしないだろう

しかし Aなどは どう考えてもおかしいとおもうのは自分だけじゃないはずだ はっきりいってしまえば どんぶり腹がでるなんてどんな詭弁を使ってもそれは 堕落の証拠なのである もちろんそれは本人は堕落しようとしてそうなっているんではなくて 実際問題 体を動かすより 口や頭を動かす方が多くなりそうなっていくのである ではなぜAやCみたいな現象が結果論として起こってきてしまうのか? → それは精神の技術者だからである ある程度の技術域に達すれば その技術に頼り 実際堕落癖がつくということである
後は 前記事をよーく読んでもらいたい そこで それらの 現象をフローチャート式に図式にまとめていけば やっとみえてくるのが これらの全体的な趣向性の流れである これら①②における趣向性の強弱をかりにエネルギーの強弱とするなら そのエネルギーの流れの因果関係を図式化して上から眺めると 時と場所は違う領域において 人間界の動機と結果の流れがみえてくるはずだ それは相互作用しながら循環しているかのようである そう時間的に!
それは お互いがお互いを観察して内省して より自分の信仰動機を強め その結果 皮肉にもその対極にあるものを強めるのである

もちろん この宗教実践方法論の世界などというのは 小さな領域であり厳密には 人間自我意識現象という広大な人間社会現象ストーリーの1角1角にこれらは位置しているのである 結果からいえば ①にしろ②にしろ これらは 人間界全体の向上というそもそもの目的からみれば ある人がスポーツをやっている程度の効果しかないのが厳しい現実なのである どうしてもただ単なる創造活動を演出しているに過ぎないとなるのである
但し! 各々の最終目的である実在認識に至れば それは全く別となる それはもう今ではあえて言う必要もなくなった非二元論の悟りといえるだろう  
でもあえて私は厳しいことを言わせてもらえば その認識が形而上学上の理解レベルではやはりたかだか知れていて 現実の現象となりその悟りが体感されてこそ意味を成してくるのである
しかしそれまでは、その 相間関係はまるで円を描くように 広がり 宗教形態を創造していくのである それは時間的にみると 何か感じはしないだろうか?
そう 輪廻転生の理論だ しかし今日はこの領域は扱わないとする

ここからが 今日のブログの主題なのだが、もう観の鋭い人なら気づいていると思われるのは 上の①②タイプの話は そのまま政治思想の右翼左翼を感じさせはしないだろうか? この場合 ②タイプの自力本願タイプはかなりの精度で右翼や保守に適合してくる それは 昔からいわれるように 右翼というのは 観が鋭く 内面に重きを置くといわれているし また①タイプの他力本願タイプは かなりの精度で左翼に適合するとわかるだろう どのような活動であれ政治活動をしたことある人ならわかると思うが 左翼というのはボランティアが好きであるし また右翼や保守が 唖然としてしまうほど 本来なら自分達の敵である者や思想形態を助けたり信仰したりもするそして 言葉の厳密性に細部に拘るわりには 政治において本質的なことが全く理解できてないことが多い よって結果反日活動に加担するようなことを平気でやってのけたりする

でもこの記事は政治的なことを追求するものではなく『性質』というものの追求がメインストリームであり 上はより深く理解するため挙げた事象にすぎない
いよいよ 今日の本題に迫るのだが このあたりでさらに 読者は気づいたかもしれないが ①②にあげたのは ただ単なる宗教実践目的の性質の違いに過ぎず 私がいいたいのは このような 性質とその動機と行動結果 という流れは 宗教が関係あろうがなかろうが、人間社会の全般で絶え間なく人間を介して流れている 動機という名のエネルギーとなっているのである ある人の特徴がなぜにそのような特徴であるのか? それは 気質から思想また人格まで これら精神の内因がどのように構成されているのか? という部分ももちろん この究極の実在からのエネルギーといえるのである
実は 気質や思想、人格なるものは 後で人間が勝手に識別した心理学などの仮の形象にすぎず 事の成り立ちの真因はそんな箇所にあるのでは全く無いというのが私の見解だ
全ては ワンネスが創造する物語であり 例えば 『本質』とか『原因』という根源的概念さえ実は意味を成していない側面があるのである
ゆえに 上の宗教実践目的のタイプ②は 思考でいくら考えても①と全く同等という結果は受け入れられず苦しむのである その実態とは 至高の実在こそが真の裁定者であり 『本質』『原因』追究に多々走る②タイプを諫めるのである 少々極端な言い回しだが 『本質』や『原因』『因果律』ということさえ嘘なら 一体我々は何を求めたらいいの? 当然そうなることは目にみえているわけで 私はその究極の実態を 絶対実在 とか もともとそうであるもの と言い現わすしかないとなるのだ

②タイプの自力本願の人が 本質や原因に目を光らせそれを追求しても そもそも本質とか原因というものが存在していなく それの意味しているのは 多くの②信者が妄信している『本質』『原因』『根源』というのがまさに 疑うことを知らない①タイプが盲目的に肥大化させた神と全く同じものということに気づかなければならないのである ただ言葉上の違いでしかないのだ それはおそらく①タイプの精神の内奥に入りそれになり切れば簡単に実感できることだろう

 自分が今まで半生を通して気づきあげてきた究極の方法論が完全に崩壊してしまうのである 最も信頼していたものが その真反対のそれに位置するということである

従って『本質』『原因』『時間』『実態』『時空』こういった単語全てがその存在意義を失うわけだから よく宗教世界やスピリチュアル その他 霊能や哲学、思想界など 人文科学の範囲で言われるところのものに 何一つ実態はなく ただ単なる幻影でしかない というのが今の私の世界観だ そうこの現実世界もである
あえていうとするなら 宗教現象は存在するが 宗教というものは存在しない となり 霊現象というものはあるが 霊というものは存在しないと
これらは 全ての単語にあてはまる 宇宙現象 原因現象 時間現象 時空現象 神現象 仏教現象 ヨーガ現象・・・・
余談をいえば これらにより最近思うのは 果たして宇宙ってビッグバンでできたのか? という次の疑問が沸いてくるのだ でもその解説はまたとする
でも 残るものがある それが究極の実在であり それだけが過去から未来に渡り永遠に存在しているたったひとつのものだ
それは それ自体は一切変化することは無く 変幻自在で全部となりえる 究極の実在で無意識の最も底辺に位置しているもので 全てを毎旬創造しているのだ
因果律現象も! ということであり それの気分次第では簡単にそんなものは吹き飛んでしまうということである
ただ大方この究極の実在は 寂しがり屋であり 色とりどりの世界をみせてくれるのである
そこに 制限など一切なく 無限に広がる仕組みをもち 時には狭い範囲にストーリーを作り出し 時には宇宙規模でストーリーをつくりだし ときにはそのストーリーを融合させたり 無限の共謀性を一瞬にしてつくりあげ 今 というときに演出しているのである
そして 私や貴方という 穴をつくり 私や貴方は その穴から自分が造ったものをみて 私現象 貴方現象を楽しんでいるのだ
①タイプは超知性スーパーマンを担ぎあげることを止め ②タイプは『本質』『原因』の追究を止め その穴をどこまでも深くみていこうではないか・・・・・・

ここに 人間観相対性理論 は幕を開けるのである

(※ここにあげたのは私が、最近辿り着いた内観の結論であり 全く持って私的見解に過ぎず 私は私の内的世界の事実を語るのであり 一般でいうところの社会的証明はあるどころか それはみてのとおり成しえない範囲の領域だということを宣言しておくとする これをみた人は己の人生の長時間に渡る内的実感でしかそれを知ることはできないのであしからず)

 

静かなる目撃者

とある人は 人生の後半にいつも内面を占めていた宗教観の帰結を

『 やはり社会においては、完璧な ”嘘” の思想インフラが必要で世界の宗教偉人は完全にそれに気づいていたため 天国~地獄、また神などを作りあげた そしてこれら誰もが認める宗教の偉人は超スーパー知性の持ち主で凡人が手がでる域ではない 』・・・①

と読み解いたらしい つまり人間の理性ではどうしても割り切れない箇所に現象宇宙の幸福の実相があるため 世界的宗教界の偉人は 思想インフラ的に極楽や地獄しいては神さえつくりあげたというのだ

これを聞いたとき 正直なんとお粗末な帰結だろう 正直空いた口もふさがらないな~というのが私の見解だがみなさんはどうかな?

直感に長ける人は これをみればまぁどのような年齢層がこのような結論に達するのかすぐピン!とくるのではないだろうか?

大部とんで これにて導きだされる結論は 如何に何事も最初が重要か?という人生論的見解と 全ては紙一重という教訓が再確認されるといえよう

今から話すことは 馬鹿馬鹿しく非常に重要でかつ 上のような宇宙観においてまずいえることは 最初からとらえている次元が違うという点にある

 

例えば私ならこの場合 宗教観の帰結は

『 全ては内面と外界におけるストーリーの完全なる一致が目指すべきゴールとなるように絶対実在はその気付きを促して人生を展開させた 』・・・②

と答えるだろう もっとも私の場合は帰結ではなく途中段階なのだが・・・

つまりは まずもって それを追求していく 最初の最初が違うということだ

しかも面白いことに どっちがレベルが高い低いではなく 次元的にもかなり いや全く違っているから なんとも複雑な心境になる

 まぁ人の数だけ宗教や思想があっていいのだから当然といえばそうだが ただそれでも一見全く違う これら宗教観 宇宙観 社会観の帰結点に一応のギリギリの共通点がみてとれるのは そのベースにある大前提が この人も含めた現象宇宙の実態はどのようになっているのか? という問いかけがある

まず①の場合 みなさんは この人がどのように世界をみているのか? 賢い人はすぐわかるだろう

つまりどこまでも道徳的普遍性にはメスを入れず 人道的 人生論的 に全ての人が苦しまずやっていくにはどうあるべきか? という概念が潜んでいる

もちろんそれは重要なことでぬかってはならない事というのは承知だ

 

一方②の私の場合は 精神と現象宇宙の関係性とそのメカニズムはどのような構造になっているのか? という 精神にメスを入れ解析していくという悟りや解脱の世界を目指す者の視点があるわけである

もちろんこれとて その隠された前提にはそれがわかれば多くの人がより幸せに近づく事ができる というポジティブな想いもある

もう賢い人はお気づきだとおもうが ①は他力本願的思考が導きがちな思想で ②は自力本願主体 となる

が! この違いを他力本願 or 自力本願 というだけで片付けていいものか? と私の中にある静かなる目撃者はいうのである

 少しラフに話せば ① の場合 この年配の方は 私の父世代と同じように神と人間の間を取り持つ宗教の偉人=大聖人は、もうほとんど神に近い存在でありとても凡人の見解が通じる器ではなく それはまさに超スーパー知性に裏打ちされた存在になってしまっている そして自分の内面観察は その偉人が説くところの教理に基づき価値判断や考察をするかもしれないが その考察の仕方とは 多分だが ショバイツアー マザーテレサ 野口英雄 その他 身を粉にして社会奉仕に人生を捧げた偉人をみる視点とかなり近いのではないかとおもわれるがいかがだろう?

 

 例えば 小学生時に受ける道徳教育においての倫理観に裏打ちされた価値体系の行き着く先にある 道徳的 人道的 良質な人生観 のような 少なくともその方面の価値体系で さらにそれがなされる主な脳領域は『言語野』といえるだろう

 事実この ① のご年配の方は 今まで考えていたような人間が行う大脳新皮質における捉え方では 世界的宗教の偉人を読み解けない としているのだ

 

ということは 逆にいえば それまでは (旧)左脳的倫理観 もしくは言語中枢の働きによる 言語により構築される倫理観でそれらを捉えていたということだ
もちろん(旧)右脳=感性や情、イメージが全くからまないか?といえば決してそうではないが まぁ人間であれば誰でもがわかるごくあたりまえの倫理観と記憶や勉強を司る脳領域による『認識』がその人のかなりの宗教観の骨格をつくることになるということだ

『方法論』

そこには 私のような生まれつき内観を楽しみ青年期は明晰夢で遊んだりして 結果自力本願系の密教やヨーガを己の精神の基軸にし 瞑想したり人生を考えたりする者とは 全く全然!違う世界観になることは容易にみてとれるわけである
まず ②であげるところの 自力本願系の宗教観 世界観 というのは そもそもの方法論のメインストリームは 断然 瞑想や座禅 その他肉体を駆使する修行などなど ほとんどはこちらに主軸がおかれるのに対して ① はおそらくどこまでも『教義=文章』を読み理解するという勉強が主軸になるだろう もちろんその他実践がある この場合の①の実践とは人を助けたり、奉仕とかボランティアとかいろいろあるだろう

もっぱら私は つい最近まで①の世界観 つまり他力本願や キリスト系の宗教観はあまりいいものとは思っていなかった というのは 本質がわからずして何をいうのか? という想いがあったからだ しかし最近はちょっと見方が変わってきた というのは やはり 慈善事業や奉仕活動 ボランティアなど無償の奉仕においては おそらく自力本願系の団体や個人より 積極的だとわかってきたからだ

ただ今も自分の方法論はやはり ②でありどこまでも現象宇宙や自分の内面の本質追求という瞑想に変わりはない
それ故 やはり①の 他力本願に視点をおく人達はどうしても損だと思ってしまう
事実 ①の 人生の後半の宗教観の帰結点をあげた年配者の職業は 学者なのだ

それこそ我々凡人が 必死に言語野を駆使して勉強という名の作業に頑張ってもそう簡単にはなれない 学者としての立派な身分をもっているのである
いつも 今までおもってきたのは なんでそんな立派な頭脳の持ち主が ①に帰結していくのか? ということだ もちろんこの年配の方だけでなく 日本の他力本願系宗派からキリスト教系のそれも 世界的規模で考えてそれは損だろう とおもうわけだ

 つまり 瞑想などを実践する自力系では 『トランス意識』を通過して 事物の実相に迫るわけだ

いゃ 勘違いしないでほしいのは そんなの信仰の自由だろ というのはもちろんでそれをいえば このブログは全く意味をなさない このブログが追求しているのはそれらのさらなる深い真意である

しかし 内観=瞑想したことある人ならわかると思うが やはり ① のみでは最終ゴールは相当難しいだろうし またその間においても ②ぬきに その路線で宗教など計れるはずもない と思っている人は多いのじゃないだろうか?
それは 直感の圧倒的実感でわかることではないのか? なぜかって ①のみでは結局 言葉の世界でしかない となるからだ やはりいきつく最終ゴールの強力な手助けは エネルギーの解釈であり 強力な閃き的認識と強力な直感である

いうなれば 生命エネルギーの構造学 とでもいうべき世界を垣間見ることなくゴールに辿りつくことは至難の業になる またどうしたってそっち(②の自力)の方が早くなるというのはいわずとしれている

それは おもしろいことに 先があげた 奉仕活動はどうしても①の方が多くなるということを考えると同時に ②はどうしても偉そうな振舞いに陥ることになる という欠点がある それもおもしろいことに 人類全体からみた場合 そこに実は調律があるというのがみてとれる

 つまり①タイプは本質から切り込まないが故に②からみたら そんな風に人を神格化するなよ という芸当をやってのけ 心から神のようにあがめるがゆえに①タイプは 奉仕の精神が強くなるわけだ 内側を追求する②にはどうしたってこうはなりきれないとなる おわかりだおろうか? (※次回触れようと思うがこの点において 内部性と外部性 また時間的輪廻もこれには関係してくることが薄っすらとわかる)

自力系が得意で瞑想が苦にならない人は是非に知るべきはここで なぜに①タイプの他力系は 奉仕精神が強いのか?というのは それは本質を追求する方向には②ほどあまり得手でないのである それ故 その精神の内部構造解析に向かわないからこそ 精神の内部構造がわからないがゆえに 宗教指導者や神をより一層あがめるに至るわけだ それ即ち あまり内面の人道的宗教観それ自体は最初から最後まで ②の宇宙観ほど変化しないといえる それ故それらの総合的帰結として奉仕精神は②より大きくなるというエネルギーの流れになるのである また本人達にしてみるとそういう形態が好きであり そこに精神的清潔感を感じる価値の方が 内面の物理学者みたいになるより全然価値が高いのだ よって言語による列記とした区分けを重んじるのもそこにある

 このエネルギーの全体性と流れ模様が! まるで釈迦がいった これありてあれ在り あれありてそれ在り まさにそれが こんな箇所におきているのだ 即座にそれは 真言密教曼荼羅を思い浮かべる人もいるだろう さらに直感の鋭い人は 政治上の左翼右翼の性質を思い浮かべる人もいるだろう(※このあたりからがいよいよ閃きはほとばしるのである)

つまり私と同じような②のタイプというのは 本質を追求するため どうしても①にはなりきれない なりにくいということになるのである そしてみてくれより本質追求の哲学的視点の方にエネルギーはいくのである

ここが私の最近の直感的悟りの部分でもある つまり私は、②こそ完璧だとつい最近まで思っていたのだがそうではないということだ しかし方法論としては優位だという事実に変わりはない(ここが味噌だ) だが全体の調和という部分でみた場合 ②ばかりでは社会がめちゃくちゃになるのがよくわかってきた つまりそこに魂の色彩の性質をみるのである
おそらく①の人は 理屈でいくら②のほうが宗教の行き着くゴールをみるのが早いとわかっていても! なぜか②の人のように瞑想することはないようになるである

それが証拠に私は 今まで①タイプと論争するとほとんどの①タイプの人は最後の最後には そうだ まさしくあんたのいうことは最もだと思う と納得する つまり②の方が宗教上のゴールが早いことを認めるのである! つまり方法論的には②が優位というのは、自然に考えて小学レベルの勉強を理解する頭をもっていれば 誰だって最後にはわかる単純な理屈だ 事実それが故に濃密な教え=密教となるのだから

しかしわかったからといって①タイプの人は②の方法論や修行体系にはなぜか首をかしげるわけだ そして最後には違和感を感じ結局①に戻るのである

つまりそれこそが科学的に絶対分析不可能な 絶対自然の絶対”性質”の顕現なのだ

②が得意な自分にしてみれば なんとかわいく愛らしいことか!と最後にはおもうのである 逆に半端に②が得意で鼻高々となっているような輩よりはるかに人道的には優れているとおもうわけだ つまり②タイプにしてみれば①をみているとおもしろくてたまらないし またその逆もおそらくいえるのだろう

つまりはワンネスとしては、そのようになっているのだ そして方法論としてもやはり他力タイプは、①が正しく①に偏っていくだろう そして純粋に奉仕や人助けその他をやるのである ②ではそれはあくまで2の次3の次だ そのように 全体としては 無意識からの信号で分布ができるということだ これこそ実在から無意識に沸き起こる自然調律なのかもしれない 全く不思議でならないとなる
そして ①からみれば②は摩訶不思議にみえ また②からみれば①こそが摩訶不思議になるのである

考えてみると これは政治世界のどっちかといえば左翼 どっちかといえば右翼 という傾向の本質も こういった ワンネスにおける実在から上への選別なのかもしれない

ほんとこの点はそうみて初めて納得できてくるのである その良い例が 一般でいうところの超IQの高い大学の博士レベルの実績を残す人が 自分の内面であたためていたその宗教観の結実が 実はこのブログでいうところの②でやったほうがはるかに効率が良いとわかっても (^_-;)おやおや 魔訶不思議で実行までには至らないどころか そんな自分の意識をトランス意識状態に深めていくなんてそんな気味悪いことできないよ という具合で やらずにおわるのである ②のタイプからみれば えっ? 大学の工学レベルの勉強に比べたら 瞑想なんて超簡単で楽なはずなのになんで~? となるのである

(※上はいままでの自分の体験から大方予測されうる事態をいっている、私は多くの人に瞑想をすすめてきたからこれがわかる

※また①、②タイプとは中盤以降はもはやその年配者の見解というより ①内的宗教観の方向性を他力に求める人 ②それを自力(密教や内観のスピ)に求める人 をいう

)

つまりは おそらくそれが絶対実在からの霊性のわかれどころだと 我が内的 静かなる目撃者はいうのである

そして それが故 ①、②においてどちらが高い低いということは決して存在していないことを悟るのである 答えをいえば 自分が体験している世界は唯一無二の絶対実在からみれば 全てが自分(実在)の顕現であり 考えてみるとそうなってあたりまえだというところに至るのだ それこそが自然であり そこに優劣の差が絶対ないことが見てとれたのである ここにはもはや科学的検証は不要なのだ また科学でわりきれない 人の魂が関連している領域であり どれだけ科学が発達してもこの比率がなぜ発生するかの真因はつきとめることはできないし そんな必要は全くないといえる

宇宙が存在したときからの絶対性質であり絶対自然で 厳然とした実態だということだ

それは科学さえも生み出す絶対実在の顕現がそうさせている至極当然の色彩だからである
 肉体の自分の左手と右手のどっちがレベルが高くどっちが低いなどという馬鹿は全く存在しないわけで 我々はそもそもごくごく自然なそういった現象宇宙の調律の中に実在の完璧性を感じるのである そう それこそが『神は完璧だ』とする言われの一部だと認識するのである

(次回のブログはこの続きからさらなる気づきを書くものとする)