Jcurrent Holism

非局在

瞑想における内観世界と現実の一致点を追求する

仏教観

私の仏教観

私が知りえる仏教の大きな枠組みとなる概念を吟味するなら それは大きく分けて2つ、もう少しわけるなら次の5つにわかれることとなる


①, 釈迦観

②, 悟りと解脱世界の認識

③, 宗教教団としての構成経緯

④, 現在のインド宇宙観 ヴェーダンタ、ウパニシャッド世界における位置づけ

⑤, 現在日本における仏教の必要性


まずは何より 仏教というものの設立経緯:歴史を大まかにみていき要点だけは漏らさず分析することが必要である

最もまず最初に 釈迦が生まれた当時のインド全体における宗教学派にどのようなものがあったか?
そこからみないと 決して物事の真義は語れない

まず私がいつも最初からわかっている漠然とし事実は 釈迦が生まれる前から 真に解脱した聖者というのはインドやヒマラヤには結構いたであろうということが 原始仏典の記述からも 薄っすらと予感される

それが故に 念頭仏なる 釈迦を導くさらに太古の仏がでてくるし そもそもインドの大きな学派やサドゥの団体 その他多くの原始宗教団体やヨーガ団体は、太古からほとんど変わらない形で今もインドに面々と受け継がれている

そこから推察できることは 我らが日本人の間では 悟りを得た人 解脱を得た人 これらがそもそも仏教用語と化しているため
これを成した人は1000年に1度全人類的に1人現れるか否か? というレベルに解釈されてしまうわけだ

しかしそれは 原始仏典やヴェーダより遥か以前のインドの歴史や教団を調べれば 一発で 5、6千年以上まえから面々と受け継がれている概念であり その解脱なる概念でいうところの意識段階に達していた人はたくさんいるであろうことは容易に推察できるのである

 もちろん 人類に知られていない 全く無名のまま亡くなった聖者など含めればそれはかなりあることが容易にわかるのであり明々白々である

 私は以前 もう25年以上まえにある原始仏教系団体を喧嘩してやめた理由はここにある その宗教の信徒はそれは絶対ありえないということを 顔を真っ赤にして 怒ったチンパンジーの如く突っかかってきたため 頭にきてやめたのである

 その団体は、この系統を研究しまくっている癖に そのようなミノムシほどの智慧さえもっていないとは あきれ果てるまでであり まぁ 『あんた達は、何のために宗教を必死に勉強してんの?』という次元でありおわっている
つまりあろうことか この団体は自分達の団体の教祖こそが それを継ぐ唯一の人だと笑ってしまうような認識にたっているから怒りまくりたれまくりであり みていて滑稽極まりない なんともおぞましい限りであり 己の低能さがわかっていないのだ

大方 我らが日本には このようにアメーバほどの智的レベルしか持ち合わせていない者がどこにでもいるものであり このような輩は勉強というものが 脳内というよりはどこか別な場所に存在しているようでならない せっかくの修行が一瞬にして台無しであり 私がこのようなブログを書くのは このような智慧よりも組織というものを重視する馬鹿を駆逐したいからである
昔はほんとこのようなアホがたっくさんいたのである 今はかなりマシになった 

 元に戻り このあたりの解釈は ②の悟り解脱世界の認識が超重要であり この点無くしてゴータマシッダルタは絶対語れないのである なぜかといえば おわりだろうか? そもそも 悟りとか解脱事態が超曖昧であるし さらに輪をかけて

それら悟り解脱を含め 仏教としての究極の"ゴール"に達するとは 何をもってそれが完成される いや正常に追行されていると捉えるのか? というさらなる言葉の定義が発生してしまうのである

端的に例をあげるなら もし仮に この人は誰もが 悟りに到達した あるいは解脱に到達した といえるであろう意識ステージを迎えたとしよう そして近隣の人はそれを垣間見たとしよう

しかし 教えを説くことは一切せず ただ黙りこくって瞑想しているだけだとしよう このような人をもってして 仏教の理想とする最終ゴールに到達した と誰がいうだろうか?

こうなってくると これは仏教における最終悟り(解脱)を得た人、には決してならないだろう

なぜなら それがどこの誰に認定されうるのか? という場合 実社会的に多くの人を納得させるだけのファクターをもっていないことになるからだ 至極当然の帰結としてそれは仏教において大成しブッダとなったとはいかないのである

例えば プロ野球のピッチャーが啞然とするほどの速球を投げ変化球もプロ野球の選手が誰一人打てない高校生のピッチャーがいたとする しかし そのピッチャーは決して その段階では プロ野球の世界では認定されないとなる しかしもちろん噂はたつであろう

つまりこのように広義の悟りや解脱を得た人 と 仏教世界において大成し悟りや解脱の域に達するという違いは 実社会の誰もが認める信頼感に基づく名声の範囲で 先にあげた広義の人は、仏教の大成者とは決してならず 仏教の大成者としての真のマスターになるには "仏教界において活動して"悟りや解脱をえて 初めて! あの人は 仏教世界の大成を修めそして悟りも得た といえるのだ それはごくごく社会人として あたりまえの 国語の範囲の常識論の範疇でいえることである

そう考えたとき 私がいつもおもうのは 確かに釈迦は仏教の開祖ではあるが相当現在の日本仏教とはかけ離れた存在であり 現在にもし釈迦が生きていたら 現在の仏教なるものを最も意味嫌ったであろうし 相手にすらしないだろうと思われるのである それどころか 仏教を破壊する運動さえ起こしたかもしれないといえるだろう

というのは もともと釈迦とは 人間的にそうだったのだ 確かに自分の口を開き その当時のサドゥー達を集め 教えを開始したことはその通りだろう しかしその仏教サンガが大きくなるにつれ ダイバダッタなどの 組織化派が釈迦に「もっとサンガを組織的に強固なものにしよう 」 というような申し出に徹底拒絶して嫌がったというのは有名な話である
要は釈迦は、それまで自然にできてきたありのままのサンガ形態を重んじていたのである

釈迦が『組織』なるものを徹底して嫌ったのは 真の解脱者としてあたりまえに芽生える感情であり もし釈迦がこの時点で組織化に多いに賛成という態度であったなら 少なくとも私の中で 釈迦の評価は半減する いやそれは私だけじゃないだろう

多少でも智慧ある人なら あれ? とおもうのではないだろうか したがって歴史的にこれほど仏教は広がる事はなかっただろう

インドで発生して クシャン族やいろんな国家に 国家宗教として取り入れられるということは 政治舞台に出る前に まずはその歴史上の各々の国の王が『おぅ~ これは本物の聖者だ・・・敬服に値する』とならなければ 決して仏教がこれほど大きくなることはなかっただろうからだ

その他 原始仏典やシャカ族の王としての経緯から考えて 釈迦なる人物が 今でいうところの非常に純粋な性格の持ち主であり 今でいうなら 誰よりもビジネスを嫌ったことは容易にみてとれるのである

そして 自然の成り立ちを愛し 質素を重んじて 生々流転する物質界への執着をどこまでも否定したのだ 当時は、自分で創りあげた1ヨーガ学派の聖者だったのである 現代の聖者と言われるもので誰がこれに最も近いといえるか? と言われれば 真っ先に私の脳裏に浮かぶのは ラマナマハルシだろう

現在の仏教界がいうところのイメージより はるかにラマナマハルシにちかい存在であり この点において 言葉でゴタゴタ反論する人がいたら その人のお頭は、絶筆の極致でさえ表現できなアホとしかいいようがない 申し訳ないがそういう人は それこそ現在のスピリチャリズムにおける『波動!波動!』という意味を何一つ理解できない感受性の持ち主であること言うに及ばずである
おわかりだろうか?

なぜにこのようなことがいえるのか? といえば 仏教というものが成立したのが 釈迦入滅後100年以上経ってからだからだ
確か?200~500年後 と記憶している
もう ここでわかるだろうか? 教団として宗教化するのに なぜにこれほど長い期間を要したのか?

賢明な人ならハッキリわかるはずだ なんでもないことで それほど強く釈迦は 宗教化を戒めていたのだ 完全にそれだけはやるな! と強く強く禁止していたことが 私には容易にみてとれるのだ おそらく原始サンガにおいてマスターによる強い禁止事項となっていたはずである

そうじゃなければ 釈迦入滅後あっという間に教団は成立し巨大化をはじめるだろう そしてシステム化へと向かうことは簡単にわかることである 当の本人である釈迦が組織化を阻んでいたからこそ数百年という月日を要したといえる 証拠資料をだせといわれてもそんなものはないのであしからず しかしその端切れみたいな薄っすらとわかる兆候は 原始仏典の中にあるので賢い人は誰もがそれを知るだろう
(※ハッキリいうが阿含経事態も私はあてにしていない 経典なるものは当時の権力者によりいくらでも改ざんできたはずであり 究極においては書き物というのは全くあてにならない それより薄っすらと伝わるそれこそ波動がものを言う)

ゆえにいえることは 釈迦そのものの教えと 仏教の教えとはかなりかけ離れているといえるのである

第一釈迦は 他力本願的な教えなど 毛頭といていない 私のブログの基準をあえて使わせてもらうなら 前記事の『静かなる目撃者』の典型的な②のタイプであり 完全自力本願ということになる

それでもその当時の他のヨーガ学派とは違い バラモン教を否定しているがゆえに異種独特であり それが浸透していく過程その途上において 右脳的表現形態は 主に北側へ 左脳的表現形態は南を通し 中国の東側に伝わるにいたる ここで表現形態とは ビジョン系瞑想 と言語系瞑想 という意味であり 瞑想を重視しない流派は省くものとする
いっておくが この伝わる伝搬の細かなプロセスを今ここでどうこう言う気は全くないのであしからず そんなものは火をみるより明らかに 多くの教団、民族、国などなどで都合よく変化しまくったことはあたりまえのことだ

つまり私がいうところの仏教観で押さえなきゃいけない超重要ポイントは 純粋な釈迦の教え と 仏教世界とは 似てはいるが全くの別物であり 現代の若者は 仏教世界なるものは 伝統としてのみ受け取り 後は思い切り投げ捨ててしまえ! ということである

先祖代々受け継がれている 行事やお寺との関係 これは日本人にとって重視しないといけない伝統であり 賢慮にやればいいのであり 子供にも教えついでいくべきである それは日本国民としての義務であり おろそかにはできないのだ

しかし 仏教世界が形成されるに至ったプロセス上発生してきた言われや教えは 全て自分の内的世界からはじき出してしまえということである つまりそこには 今から2000年前のインド周辺部の国々~現代日本に至るまでの 国を治めるための 戒めや戒律その他の言われなどなど おおよそ釈迦とは無関係な戒めや制御が含まれているからである

そんなものは くその役にも立たないどころか 真の釈迦の教えの邪魔にもなれば 高度な智慧の妨げになるのである

 ただ日本の伝統に関わる行事宗教は 伝統であるため家の先祖からの行事宗派仏教は、日本人として粛々と気持ちを込めてやっていけばいいだけのことである これを無視したり強制的に排除する動きは 今度は反日的行為とみなされるだろう つまり今度このような伝統に関わる部分というのは それが釈迦に基づく基づかないなど一切関係無く それは今度日本人としての道徳に関わる領域ということになるため 粛々と伝統はやっていくべきである

 それは神道とて同じだ 実は 日本の神道というものは 仏教が入ってくるまでは 実はシステム的に体を成してはいなかったといわれている 非常に雑句まばらに受け継がれているものが 仏教入伝と共にシステムとして全国的に形を成していったというのが現実のようだ


そしてそれとは別に 純粋な釈迦の教えこそ 自己啓発というか瞑想修練も含めた自分の内的内省の世界で実践していけばいいのである

しかし ここで問題が生じるのが では実際のお釈迦様じきじきの教えとは どのようなものか? といったときに 阿含経に説かれているものだけでは どうしても役不足になるのである なぜならあまりに抽象的すぎるし 現代においてほぼ不可能と思われるような内容ばかりが説かれている しかし本質的な部分ではそのいわんとしている核真はわかるといえるだろう

こっからが いよいよ 私の持論展開となるのだが 私のやり方とは このような場合 さらに原点に戻るのである
原点に戻るといっても 釈迦を完全無視して 即座に古代インドの違う聖者の教えに方向転換しろといいたいのではなく

悟りや解脱というものを もう一段出来る限りのとこまで解釈しなおせ といいたいのである

やはり 仏教が 他のキリスト教はじめイスラム教 道教 ユダヤ教 モルモン教 その他 と違うところというのは 明らかに 神をその終着点に置いていない点といえる つまり神をあがめなさい という帰着点には全く在らず

むしろその逆で 神という存在さえ実は 幻なのですよ それがわかる時点まで意識を高めなさい として それを悟りとか解脱と呼んでいるのである わかるだろうか?

仏教やヒンズー教が 飛びぬけている点は この点をどこまでも強調するのである なぜ強調というか? といえば 厳密にこれは 他のキリスト教をはじめ 世界的な宗教をみた場合 その宗教の宗派によっては 悟りを重視していて その宗教の密教の部分では必ず悟りや解脱を説いているからである つまり厳密にはほぼ全ての宗教がこれを説いている(一部を除いて)
実は 太古神道とて その瞑想法においては神とはただ瞑想状態における 出現するエネルギー領域を現わす名称でしかないのである

 しかし初っ端から 悟りや解脱つまり宇宙実相覚醒を高らかに掲げて 覚者こそ人の目指すべき最終形態だとする姿勢が断トツ強いのが ヒンズー教や仏教といえるのである つまり仏教やヒンズー教とは 初っ端からその思想形態の本質力学事態が 自力本願にあるのである それが見抜けない御仁は それが学者であっても どのような世界的偉人であっても 貴方の現代文読解能力はおわっていますよ と言わざるおえないのである

 こういう箇所に 即座にその本質を見抜く直感は働くといえるだろう
これがわからないものは 相当宗教音痴かこの系統の知識が全く無いに等しいといえるだろう
(元へ)したがって もうこのあたりから 自力本願と他力本願の違いが発生しているのだが この話題は今日はちょっと脇において

その仏教や 広義の意味においてでかいヴェーダンタ系のヨーガコミュニティも含め 『あの人は悟っている』『あの人は解脱している』という意識状態は 誰が証明するのか? というのが一つの大きなポイントになる
おわかりだろうか?
今仮にその 悟りや解脱を現わす意識状態を全て 涅槃としておくと この涅槃に到達している到達していないの認定は 本人がいくらやってもそれは知れているのである
他人がそれを認めたとき 初めて! はじめてそれは この世に公的に『 存在 』するに至るのだ

当然原始仏教において必ず この現象は起きているのである 釈迦自身は その涅槃状態に 人に説き始めるはるか前に到達していた しかし その涅槃意識を人にどのように伝えるべきか? それを考えるとバカらしくなり一人ひっそりとそれに浸っていたのだ
そこに 多分 まず第一の弟子となる サドゥーがものめずらしそうに おそらく これは自分の解釈だが....

「それにしてもシッダルタさんよ 昔、国の王子でもあったし頭も良いだろう貴方がどうしてバラモンの絶対的掟に背くような修行法に走ってしまったのか? あの苦行の破棄は貴方の仲間の信頼を裏切るということは 貴方とてわかるだろう せっかくサドゥの人気者であった貴方なのに なぜにあのようなことをしたのか? それにしちゃ貴方は何事もなかったかのように平然としてますね
鉄則の掟を破っておきながらその自信はどっからくるのですか?」

おそらく その時期に釈迦の周りで様子をみながらウロチョロしていた元サドゥの仲間は そのような質問をしたとしても全然おかしくはないだろう もちろん この質問は 今私が想像しただけのものでしかないが そのような空気観が釈迦周辺の元々の修行仲間に流れていたとしても 全然おかしくはない

そこで釈迦は ある時期 賢慮に質問を投げかけてくる行者に 口を開いたのだろう そういう流れから 原始釈迦サンガーがはじまるといえるだろう

もうおわかりだとおもうが ラマナマハルシとて展開は違うが 足が腐るほど寺院地下の片隅で三昧境に浸っていたマハルシを叩き起こして 口を開かせたのは 他人であり かくまうところからスタートしているのである

賢明で賢い人はさらに この逸話を想起するだけで即座にわかることがあるだろう

そう! こういった「他人がその黙りこくる乞食覚者を気にかけほっとけなくなり 食事を与え適切な場所に運び事情を聴き 驚き打たれていき やがては人を集め教えを説いてくださいと頼むに至る」

この現象こそが ブラフマンの現象化なのである この現象全般がブラフマンの実態であり具現化なのだ

話は元に戻り 私がこの「ブラフマンの呼びかけ」でいいたかったことは、いずれの場合も 他人が"それ(涅槃)"を認め驚き感嘆する状態からはじまるという1点である

しかし 上にあげたる現象は この物質世界の常識論の範疇の言葉で説明できる範囲の描写であり 真の覚者の恩寵というのは計り知れない というのは このように短文で表現できる現象だけでは止まらないパワーをもっている

次から次へと展開されるシンクロニシティで 事態はどんどん肥大化していくのであり それは人々の集合的無意識の世界で強烈なパワーを秘めて人をプラスにもマイナスにも誘い 人をひきつけていくのである

そして『 仏教現象 』という形態を世界に広めるに至るのである

従って あの人が涅槃状態にあるないの判定こそが 涅槃それ自体の実在を規定しているのであり 決して何か特殊脳波計でも使いそれを測り認定されているのでもなければ 国が認める認めないでもないのである
それだけ多くの人が 仏教現象を検討する際に それを認定するかどうかに関わっているとなるのである

従って 原始仏教において 釈迦の涅槃を一番最初に察知したであろう行者(別に一般人でもよい)に もともと超古代インドから面々と受け継がれている 覚者とはどのようなものか? というヒンズー教から全てのヨーガ学派に伝わっているその覚者なる根本雛形がなければ 仏教現象は起きえなかったのは明白な事実であり そういう意味において 仏教とは ヴェーダウパニシャッドも含めた インドのおける広範囲の超古代からの英知に含まれるのである

それゆえインドでは 国家を含めた公のヒンズー教のうちに仏教は含まれているのである インドにおいて仏教徒は非常に少なく 多くの偉大な古代からのヨーガ聖者のたった一人にすぎないが それに含まれるか含まれないかは インドの高名な哲学者の間で非常に厳格な審査をしているはずであり それにかなうため 仏陀釈尊は ヒンズーの偉大な聖者の一人とされているのだ
それ故 数百年~千年以上前に建てられたヒンズー寺院の彫刻の中に仏陀釈尊は彫られているが あくまで多くの聖者の一人でしかない

別にだからといって 我々の信心が変わるものではないが そう考えたとき 昔から今まで ネットが無い時代というのが如何にでたらめな嘘八百が並べられ あることないこと作られてきたか それを考えるとき もう我々は 智慧の乏しい商売屋や権力を振りかざしたいだけの教祖連中に振り回される必要はないのである

考えてもみれば 哲人の国インドに太古から存在している何百何千にもわたる教えのたった一つの教えであるにも関わらず 我々は歴史において 何の関係もないことをこじつけて それをさらに あれやこれや騒ぎ立て 東南アジア、中国や日本においてどれだけ多くの 仏教学派が誕生したか考えてみればぞっとするのである
も~いいだろう いいかげん仏教の宗派をわけるのは飽き飽きであり そんなことをしても何の意味もないのである

しかし逆に別な見方をすれば なぜに東洋では仏教のみがこれだけ多くの広がりを見せたのか? といえばそれを政治利用しようが悪徳宗教家が利用したからと言おうが とにかく仏教系が最も大きく普及したというのは事実であり

 その真因とは そもそも事の起こりが古代インドの王家の王子がその開祖であり 最初の段階からバックボーンに巨大な富をおのずと抱えていたというのがあるかもしれないが決してそれだけでもなくて 教えの本質の純粋さが洗練されていたともいえれば それだけ実在認識を言い現わすのに近かった 優れていた いや それこそが実在といえるからだろう

最も的確な表現をするならば これが仏教現象という究極の実在からの形なのである そう考えると元々なかった他力本願や大乗などのナーガールジュナ=龍樹菩薩なども 釈迦と一心同体であり 釈迦という存在の因が起こした現象であり これ在りてあれ在り あれ在りてそれ在り の面々とつながる仏教界の創造現象となるのであり その最も最初にあるのがたった一人の釈迦という存在であり まさしく偉大な押しも押されぬ世界の大聖者ということになる

ここでまた元に戻り この記事を書くにあたり 最も訴えたい部分をもう一度整理すると

ある人の涅槃状態というのは 何をもって公的に認められるのか? という部分が最も重要であり

・それはまず 一番最初にそれを 認め感嘆する人が表れる そしておそらくその人や3~5番目の人が中心に人を集めはじめる

・次に3番目にその涅槃を認定する人がでると同時にそろそろ その涅槃たるやの規定の必要が生じてくるが 3人程度ではそれは必要にせまられるものではない しかし薄っすらと『規定』という概念の必要性がではじめる

・そして4人集まれば 空気の流れが生じ分裂の危機が生じるということもありそろそろ決まり事が必要になる
こういうときこそ!まさにこういうときには 商売人体質の人や強欲な悪徳権力者は、いつも笑い飛ばしている『波動』を誰より重視して敏感に察知して 組織化に神経質になるのである その変化たるや超能力者とて驚きといえるだろう わかるだろうか?(~~)
こういうところからも 商売優先を叫ぶ者が如何に嘘つきであるか? また悪徳に徹しているかわかるだろう

そう! 彼らとてそういう性質はあるのだ! ちゃ~んと今をときめくスピ系の『波動』を読む力があるくせに 場面が違えば 軽く笑い飛ばしスピ系など馬鹿にするのである そうこれからの若者はこういう隠れた虚の部分を逃してはならないといえるだろう

パサイト氏は、動画で必死に思い出したかのように『波動について』を説明していたが 彼が勉強しなきゃいけないのは、高名な政治家であればあるほど 実は『波動読み』は そもそも大得意で100もわかっているのである 悪徳政治家であればあるほど・・・

この後は ますますもって 本質と組織論の戦いがはじまるのだが あくまでそれはリアル人間関係での話で これにより涅槃意識が変わるものではなく 涅槃意識事態は 永遠に不滅であり それは変化するものではない

変わるのは あくまで 外界のそれに携わる組織人の間での運用面だけであり その領域は 涅槃とはそもそも一切関係なく このようなことは ごくごく一般的な会社の組織運営論とさして変わるものではなく そんなものに 振り回されては絶対いけないのが 涅槃意識を純粋に獲得しようとする人達の心構えだといえる

やっと いいたいことがいえるのだが ゆえに宗教やスピ系組織にこの系統の勉強が振り回されるようなことは、絶対あってはならないのである おわかりだろうか?

組織に振り回されて それも勉強の一つというのは 会社や国や地域の団体や他の趣味でやればいいのであり 宗教やスピ系でこんなことがあるのは 愚の骨頂であり断じて許されることではないのというのは 一目瞭然である

なぜに長い長い 仏教観を力説したのか? それはこれらを徹底理解して初めて ブッダかずひさ を語れるからであり

現代にポツリ現れた ブッダかずひさ を語るにはこれら知識が是非とも必要となるからだ

後 私は、釈迦のアートマン否定という行為の真意を示し その実相をまた記事にする予定である