Jcurrent Holism

非局在

瞑想における内観世界と現実の一致点を追求する

無限性の共謀

人間観相対性理論

前回の記事『静かなる目撃者』は 久しぶりのブログということもあり 非常にややこしくまどろっこしい記事となった

前記事は 本来言い現わすことが非常に困難な 気づきに次ぐ気づきにより形成されたイメージを無理やり文で表現したのだが、1文1文読んでもほとんどの人は私が表現したい真意をくみとれる人は少ないかもしれない 是非も無し・・・・ 

もう一度軽くおさらいをいうなら それはいうなれば 自力本願と他力本源の無意識におけるパワーの流れと またそれらを川だとするなら それが無限の大海という絶対実在から流れこみ どのような”立体形状”を構成するかをいいたかったのだ あえて3Dの立体形状と表現したのは ある1面だけをみても全くわからないからだ
しかし わかる人にはわかるだろうと思われる どこまでも『性質』というものの原因とそれが辿り着く結果を 1つ1つみていく必要がある
例えば
前記事における 人が抱く宗教観の目指すゴールに向かおうとするその手段的信念体系を ①他力本願におく人 ②自力本願におく人 という設定において 次のことをよくよく考えてみよう

・なぜか ヨーガのマスターというのは 中年の小太りが多く かなり高名な聖者ですら 腹がまるで狸のようにでている ・・・A
・なぜか 奉仕活動を熱心にやっているのは ②の団体や個人より ①の方が多い これは実際昔からよく聞く話だ ・・・B
真言密教の正式な僧侶は かなりスナックに通ったり街で女遊びすることはよく聞く話で また偉そうなのが多い 実際 昔の密教の僧侶はそういう人が多い
 この部分は禅とて同じだ 実際問題 ついこの前も 総合病院のキリスト教信者の医者は、②タイプの身分の高い人は偉そうで惰性的だから嫌いだと話していた
 ・・・C
・①と②が 宗教実現の方法論の優劣の会話をした場合 現実的には、たいがいの場合において①は 最終的には②の方法論が優れていることに同意する 
 方法論においては負けを認めるパターンが多い ・・・D
・①タイプの人の方が プライベートとそうじゃない場合を厳密に区分けする度合いが強い また約束や言葉上の定義に際限なくこだわることが多い
・これはとくによく見かける事象だが ①タイプは 物事の展開が普通とか標準から少しでも離れると とたんにオカルト的な評価をくだす傾向が強い
 実際問題 キリスト教系の信者は ちょっと奇風な人をみると 悪魔を持ち出すまでさほど時間を要しない 勉強が足りない人ほどそうなるのに時間を要しない
・①タイプは ②タイプが驚くほど 信仰対象を神格化させ唖然とする場面がよくある 一方②タイプは平気で信仰を裏切っている場面が多々みられる 
 それでいて平気な顔をして笑っている
(※前記事もそうだが これら①、②というのは 自力他力に的をしぼり 典型的な信仰体系だけをあげているのであり 現実の信仰とは①と②が入り乱れているのが普通だし、実際現実には、さらには非常にセンシティブで複雑怪奇なのは 言うに及ばずだ もちろん自力他力の判別以外の多大な要素が入り乱れている ①②とはそういったリアルの様態から典型的要素を抽出してまとめているにすぎない)

その他まだまだあるのだが このあたりにしておくとする 上に示すのは 今まで瞑想家として②に拘って思索を重ねてきた私個人の体験であり明確な証拠はどこにもない つまり人によっては それはあんたの主観でしょ? で終わる話なのだが 私は過去この部分は熱意をもって調べてきたので自信がある

また 重要なのは 一般相対性理論ではなく 人間観相対性理論とでもいうべきで ②である私みたいなタイプにはこのように映るともいえるのだ(この点も重要)
話は戻り 上にあげた これら諸々の現象をみて 貴方はどう感じどう思うか? で終わるべきじゃないといいたいわけだ

普通なら 感受性豊かで宗教観も豊な人なら上のような①②おのおのの性質をみて思うことは 『うん! わかるわかるそうなんだよね でもそれはなるべくしてそうなってんじゃん』 と1個1個の真因なら納得しても その全体性をみようとはしないだろう

しかし Aなどは どう考えてもおかしいとおもうのは自分だけじゃないはずだ はっきりいってしまえば どんぶり腹がでるなんてどんな詭弁を使ってもそれは 堕落の証拠なのである もちろんそれは本人は堕落しようとしてそうなっているんではなくて 実際問題 体を動かすより 口や頭を動かす方が多くなりそうなっていくのである ではなぜAやCみたいな現象が結果論として起こってきてしまうのか? → それは精神の技術者だからである ある程度の技術域に達すれば その技術に頼り 実際堕落癖がつくということである
後は 前記事をよーく読んでもらいたい そこで それらの 現象をフローチャート式に図式にまとめていけば やっとみえてくるのが これらの全体的な趣向性の流れである これら①②における趣向性の強弱をかりにエネルギーの強弱とするなら そのエネルギーの流れの因果関係を図式化して上から眺めると 時と場所は違う領域において 人間界の動機と結果の流れがみえてくるはずだ それは相互作用しながら循環しているかのようである そう時間的に!
それは お互いがお互いを観察して内省して より自分の信仰動機を強め その結果 皮肉にもその対極にあるものを強めるのである

もちろん この宗教実践方法論の世界などというのは 小さな領域であり厳密には 人間自我意識現象という広大な人間社会現象ストーリーの1角1角にこれらは位置しているのである 結果からいえば ①にしろ②にしろ これらは 人間界全体の向上というそもそもの目的からみれば ある人がスポーツをやっている程度の効果しかないのが厳しい現実なのである どうしてもただ単なる創造活動を演出しているに過ぎないとなるのである
但し! 各々の最終目的である実在認識に至れば それは全く別となる それはもう今ではあえて言う必要もなくなった非二元論の悟りといえるだろう  
でもあえて私は厳しいことを言わせてもらえば その認識が形而上学上の理解レベルではやはりたかだか知れていて 現実の現象となりその悟りが体感されてこそ意味を成してくるのである
しかしそれまでは、その 相間関係はまるで円を描くように 広がり 宗教形態を創造していくのである それは時間的にみると 何か感じはしないだろうか?
そう 輪廻転生の理論だ しかし今日はこの領域は扱わないとする

ここからが 今日のブログの主題なのだが、もう観の鋭い人なら気づいていると思われるのは 上の①②タイプの話は そのまま政治思想の右翼左翼を感じさせはしないだろうか? この場合 ②タイプの自力本願タイプはかなりの精度で右翼や保守に適合してくる それは 昔からいわれるように 右翼というのは 観が鋭く 内面に重きを置くといわれているし また①タイプの他力本願タイプは かなりの精度で左翼に適合するとわかるだろう どのような活動であれ政治活動をしたことある人ならわかると思うが 左翼というのはボランティアが好きであるし また右翼や保守が 唖然としてしまうほど 本来なら自分達の敵である者や思想形態を助けたり信仰したりもするそして 言葉の厳密性に細部に拘るわりには 政治において本質的なことが全く理解できてないことが多い よって結果反日活動に加担するようなことを平気でやってのけたりする

でもこの記事は政治的なことを追求するものではなく『性質』というものの追求がメインストリームであり 上はより深く理解するため挙げた事象にすぎない
いよいよ 今日の本題に迫るのだが このあたりでさらに 読者は気づいたかもしれないが ①②にあげたのは ただ単なる宗教実践目的の性質の違いに過ぎず 私がいいたいのは このような 性質とその動機と行動結果 という流れは 宗教が関係あろうがなかろうが、人間社会の全般で絶え間なく人間を介して流れている 動機という名のエネルギーとなっているのである ある人の特徴がなぜにそのような特徴であるのか? それは 気質から思想また人格まで これら精神の内因がどのように構成されているのか? という部分ももちろん この究極の実在からのエネルギーといえるのである
実は 気質や思想、人格なるものは 後で人間が勝手に識別した心理学などの仮の形象にすぎず 事の成り立ちの真因はそんな箇所にあるのでは全く無いというのが私の見解だ
全ては ワンネスが創造する物語であり 例えば 『本質』とか『原因』という根源的概念さえ実は意味を成していない側面があるのである
ゆえに 上の宗教実践目的のタイプ②は 思考でいくら考えても①と全く同等という結果は受け入れられず苦しむのである その実態とは 至高の実在こそが真の裁定者であり 『本質』『原因』追究に多々走る②タイプを諫めるのである 少々極端な言い回しだが 『本質』や『原因』『因果律』ということさえ嘘なら 一体我々は何を求めたらいいの? 当然そうなることは目にみえているわけで 私はその究極の実態を 絶対実在 とか もともとそうであるもの と言い現わすしかないとなるのだ

②タイプの自力本願の人が 本質や原因に目を光らせそれを追求しても そもそも本質とか原因というものが存在していなく それの意味しているのは 多くの②信者が妄信している『本質』『原因』『根源』というのがまさに 疑うことを知らない①タイプが盲目的に肥大化させた神と全く同じものということに気づかなければならないのである ただ言葉上の違いでしかないのだ それはおそらく①タイプの精神の内奥に入りそれになり切れば簡単に実感できることだろう

 自分が今まで半生を通して気づきあげてきた究極の方法論が完全に崩壊してしまうのである 最も信頼していたものが その真反対のそれに位置するということである

従って『本質』『原因』『時間』『実態』『時空』こういった単語全てがその存在意義を失うわけだから よく宗教世界やスピリチュアル その他 霊能や哲学、思想界など 人文科学の範囲で言われるところのものに 何一つ実態はなく ただ単なる幻影でしかない というのが今の私の世界観だ そうこの現実世界もである
あえていうとするなら 宗教現象は存在するが 宗教というものは存在しない となり 霊現象というものはあるが 霊というものは存在しないと
これらは 全ての単語にあてはまる 宇宙現象 原因現象 時間現象 時空現象 神現象 仏教現象 ヨーガ現象・・・・
余談をいえば これらにより最近思うのは 果たして宇宙ってビッグバンでできたのか? という次の疑問が沸いてくるのだ でもその解説はまたとする
でも 残るものがある それが究極の実在であり それだけが過去から未来に渡り永遠に存在しているたったひとつのものだ
それは それ自体は一切変化することは無く 変幻自在で全部となりえる 究極の実在で無意識の最も底辺に位置しているもので 全てを毎旬創造しているのだ
因果律現象も! ということであり それの気分次第では簡単にそんなものは吹き飛んでしまうということである
ただ大方この究極の実在は 寂しがり屋であり 色とりどりの世界をみせてくれるのである
そこに 制限など一切なく 無限に広がる仕組みをもち 時には狭い範囲にストーリーを作り出し 時には宇宙規模でストーリーをつくりだし ときにはそのストーリーを融合させたり 無限の共謀性を一瞬にしてつくりあげ 今 というときに演出しているのである
そして 私や貴方という 穴をつくり 私や貴方は その穴から自分が造ったものをみて 私現象 貴方現象を楽しんでいるのだ
①タイプは超知性スーパーマンを担ぎあげることを止め ②タイプは『本質』『原因』の追究を止め その穴をどこまでも深くみていこうではないか・・・・・・

ここに 人間観相対性理論 は幕を開けるのである

(※ここにあげたのは私が、最近辿り着いた内観の結論であり 全く持って私的見解に過ぎず 私は私の内的世界の事実を語るのであり 一般でいうところの社会的証明はあるどころか それはみてのとおり成しえない範囲の領域だということを宣言しておくとする これをみた人は己の人生の長時間に渡る内的実感でしかそれを知ることはできないのであしからず)