Jcurrent Holism

非局在

瞑想における内観世界と現実の一致点を追求する

瞑想の素

瞑想の栄養素 瞑想の内的クオリア

恐怖のオンパレードとは?

瞑想における内的質感=クオリア これを以下は瞑想の味の素 瞑想の素としよう

私は ここ20年間 毎日ではないにしてもずっと瞑想を日課にしてきた それでもやはり たまにどうしても瞑想においてやる気が継続しない時というのがある いゃ やる気という表現が適正かどうかもわからないところだ

そもそも瞑想とは 自己啓発の1手段という側面もあるため 瞑想がうまくすすまないときはちょっと気分的にネガティブな状態といえるかもしれない

厳密にいえば 瞑想という行為はやる気があっても 内的になぜか 瞑想している・・・という実感にいくらやっても達しないというほうが正確かもしれないということだ

つまり そんなときは 瞑想を進行させる何だかのベースにあるエネルギーが足りないのだ
それが何なのか? 今日はそのための記事といえるだろう

その前に 皆さんは 宇宙戦艦ヤマト波動砲は御存知だろうか? ヤマトの波動砲は ただじっとしていても空間からジワジワと波動エネルギーがたまり ヤマトは船を動かす動力や主砲そして波動砲を運用することができるわけだ
もちろん これは所詮SFの世界だが・・・・

自分は この『 瞑想の素 』たるや これに似ている気がしてならないのである

人間というのは 衣食住に関わることや 生理機能の実行に伴う行為、社会的に絶対的となる義務以外 日本を含めた先進国においては、何事も本人の完全自由でそれ故 上であげたような生活保障に関わる以外の活動の場合は 必ずやる気が必要になる

その 『 やる気 』の中でも 例えばゲームをやる場合など そこにはさらにそのやる気の素となる 面白さといった要素やロマンチシズムといった 内的価値観の動機がベースとなる場合が多い

やっと話すことができるが 当然 瞑想なる行為も この内的価値観というものがベースとなり行動するのであるが ただ 瞑想の場合は ただじっと座っているだけの作業である

さらに 細かく分析するなら これらじっと座って自分の内面をみつめるという作業 と それらによって得られる「気付き」や内的統一感 また超越的な意識 このような目的や結果 作業と目的(結果)にわけられる

もちろん 目的がなければ 作業に全く意味はないのであり どこまでも内的直感や閃き、気付き、意識の変調、潜在意識下の発見や内面のエネルギーの統制 これらが得られないのでは話になっていないわけだ

つまり 私が瞑想の素 と呼んでいるものは やる気とはちょっとちがうのかもしれない

瞑想をやる気があり やるのだが いくらやっても うまくいかない 何も進行しない というときがあるのである

ずいぶん前に このことが意味するものを深く考え続けたことがあるのだが・・・・

今一歩これは 何が原因でこのようなときがあるのか? 結局のところわからないのだが

それでも 薄っすらとわかってきたことは この暗黙のうちに この瞑想の素 となるものは ロマンのさらなるベースにあるもの

ロマンといっても一口に 簡単にわりきれるものではなく これは非常に難しく とらえることは容易ではないのである

少なくとも 1年以上 ほぼ毎日瞑想にふけった人ならわかるかもしれないレベルのエネルギーの違いである

それは 宇宙戦艦ヤマトの波動エネルギーをおもわせるものであり 人間総合エネルギーといったほうがいいのかもしれない

それは 大方変化に富む日常を送るほうが 変化に乏しい日常より そのエネルギーは蓄積されるといえるかもしれないが 絶対的ではなく 変化に乏しい日常でも溜るときはたまるのである

疲れなども一切関係なく ポジティブネガティブも関係しているが そこに本質があるのではなく 自分一人の世界における内的冒険者としてのエネルギーであり 一切定義できないのである
ただ 大方頑張った日や 気分が良い日の方がそれは溜るといえるのだが 決して定義的に絶対的ではないのだ

瞑想の栄養素 瞑想の素 そのような何かが確かに存在していると思うのは私だけだろうか?

一ついえることは あまりにも心がドライな時は瞑想はできないし またあまりに精神がシラケムードのときも瞑想はできないが そのようなときは 最初から瞑想事態おこなわないだろう

そういえば 確かに 精神が乾きすぎているときは瞑想できない としか表現できないが これは少し関係しているかもしれない
大方これには 5元素の水元素=水エレメントが関連しているのだと思われる 意識に潤いがないのである
よってこの状態の違いを深く観察することで 水元素がいかなるものか? という5元素の認識につながるだろう

とにかく いえることは 瞑想という行為も 生き物と同じように 栄養素が必要であり それは 明らかに日常が関係していて その日常において 喜んだり怒ったり 悲しんだり笑ったり これらが適正になされるほど 瞑想の素は増えるのである


しかし これらが絶対的に必要か? というと決してそうではないというのは そんなことをいえば 山に一人で住み 仙人みたいに修行する人はこれらが充電されない となってしまうからだ

よって そんなことはないのだが 何かしら このエネルギーは 実在からのご褒美みたいに充電されるようである

この 瞑想の栄養素 瞑想の素なるものは そんな神経質に考えないといけないほどのものでは決して無く

数か月~1年以上 瞑想を日課とするなら おそらく誰もが 薄っすらと感じる程度のものである

人によりそれは 今日はちょっと集中できないな~ でおわるものかもしれない

しかし私は これらの実態が何なのか? これからも観察していくし この正体をつきとめたい とおもうのである

瞑想を日課とする人で これをうまく言える人がいたら 是非とも教えてほしいものだ

瞑想がうまくいくときは 気付きが鬼のように押し寄せるが この瞑想の素が不足しているときは 間違っても気付きも得れないのである

 パサイト氏の動画で 『 根拠の無い自信 』という言葉を ぱっさんはしきりに発言していたが これとちょっと似ている要素がある

それは おそらく 誰の中にもあるであろう 根拠が全くないけど内的実感として感じている内的なロマンがあり 確かに氏がいうように 人のうちにありそれほど強いものは無いのである

おそらく それは実在からの実感であり 今生において形態としての自分を成り立たせている大本からの響きであり

その内的な実在からの形をまとった響きが不足しているとき瞑想は不可能となるのかしれないのである

そう捉えた場合 その瞑想の素が不足している時間というのは 実在との接触が薄らいでいる というよりあえて実在がそうしているともいえるわけで 簡単にいえば そんなときは 瞑想しても意味がない時ということだ

そういうときは 瞑想世界とは逆のことをやるべきなのである それはまさに的をえていて

瞑想世界追求者は それを知るべきというのは ラマナマハルシに次ぐジュニャーニヨーガのひじりである ニサルガダッタマハラジも このような状態のときを本でさりげに現わしている

魂の長い長い修行期間という生涯においては 例えヨーガを実践する者でも 時期的に逆に魂から遠ざかる旅にでるときがあるといっている箇所が見受けられるのだ もちろんこれは長期的スパンを意味するのであるが

おそらくこれは 短期的スパンにもありえることが予想される それはおそらく 理論的 内なるシステム的 エネルギー的に あるいは霊的に 神経質になりすぎることを阻止する働きがあるのかもしれない いや ほとんどそうだろう

これはそもそも『神経質』という漢字をみてみればわかることで 神の経路に敏感すぎる状態を現わしている ではその神とは何か? 人格神である 人格をまだもっている神に敏感すぎる とはどういうことか?

宇宙全ての実相を現わす実在ではなく 人格に敏感になるとは 会社で上司にビクビクしている姿を現している

そんなんでは 瞑想を極めるそもそもの大前提がオチャラとなるだろう 瞑想を目指すものは 特にA型中心社会の日本人は必ずこ
れに陥るのである

 そして 二言目には 意図も簡単に言葉に引っ掛かり『波動がどうこう』『低級霊がどうこう』『エネルギー
が下がった』などなどそれはそれは 

恐怖のオンパレード

になってしまうのだ

必ずこれが待っているのだ 必ず! こんなことが気になってきたときこそが 瞑想の素がたっぷりあるにも関わらず 瞑想から遠ざかっていると知るべきといえるだろう

いや これは実際ほんとそうなのである もはや この状態においては 貴方は次から次へと不安を実態化させるだろう

考えてみればわかるが ラマナマハルシやマハラジがこういったことを言うだろうか?

ちょっと考えてみればわかるが 釈迦をはじめこれらジュニャーニヨーガの聖賢達も この世界事態さえも全くの幻であり 夢のようなものだ と認定しているのである 目の前にある机さえ 実はそうだといいきっているのである

ということは、『波動がどうこう』『低級霊がどうこう』『エネルギーが下がった』などというような希薄性の強いものは 次の瞬間に意念の力でどうとでもできるものだと悟ることが重要であり 実際どうとでもきるのである

しかも こんなものは 瞑想が深まれば深まるほど たった一発の念で簡単に吹き飛んでしまうことがわかるはずなのである

結果からいえば 自分以外の客観的霊 波動 邪念 生霊 エネルギー 気 その他の形象 これら全てなぜに今まで全人類的に統一されることがないのか? ここを冷静に考えるべきといえよう

この記事を読んだ人には是非これをお勧めする → 心がけ、方法論や修行論において何からしらの規制的恐怖が沸いてきたなら

上をゆくゆく考えてみることをお勧めする それらは貴方がそれを信念体系に組み込まない以上全く存在していなく実態もないのである
これは私の意見だが 逆に自分の信念体系に組みいれた世界観は 現実の物質世界にすら存在してくるということである
最近は、実はこの領域に 輪廻転生 が存在していると悟ってきた次第だ なぜに 輪廻転生 なるものが あるようでないようで

未だその社会的にその真偽のほどは 完全に明らかとはならないが しかし一部では完璧なまでに明らかなこととされている

実は ニサルガダッタマハラジは この点さえもちゃんと名言しているのだ

それが信念体系の中に確実にある人にとってそれは 現実的にあるのである また世界はそれがあるかのごとく展開されうるといえる しかし人は厳密にいえば 非物質世界の存在認識と物質世界の存在認識 は絶えず変化していて これが完全に一致している人などはまずいないのである わかるだろうか そうなると それが物質世界に反映され現実となり揺らぎが生じるとなるのである

今日の記事は ちょっと内容が違うため このあたりにしておくけど 今度これについてはテーマを設けて徹底して訴えたいところである

おそらく こんなこともわからないようでは 内面と外界の完全一体化というシンクロニシティの連続 → それがあたりまえ という世界はこないといえるだろう

我々が幼い頃 禅の高僧は こういうものを ただ一言『魔境』と呼んで そのような知覚領域は、速やかに通過せよ の一言のみで終わったものだ 今の私も全く同感だとおもうまでだ

そもそも 道元禅師の永平寺で おかしな反応をしたら禅のお坊さんが 後ろから棒でバシンと肩を強く叩くというのは こういうのを邪念として活を入れるという意味さえあるのであり このようなものは一時の錯覚だとみなしてしまっていいのである

( ´∀` )そもそも例えスピ好きな人の間であっても「波動!波動!」などといいだしたのは いつからだろうか?
ほんの10年~20年前の 江原啓之 が社会に登場したころからじゃないだろうか?

ヨーガだけに限らず 宗教家や信者 スピリチャリストなど この道に通じる人は数多い こういう人が陥りやすいものの中に

『それをやるとネガティブになる』『低級霊にとりつかれる』『エネルギーが低下する』『波動が下がる』『・・・・』

などなど 真剣にやるがあまり その道を追求しない人からみるとおかしなことを言いだす場面は多くなりがちだ
それは もう 完全に滑稽でならない

私は 過去オウム事件以前 つまり20年前からずっと瞑想修行にあけくれてきた よってこのようなことは全て迷信であり
全く気にとめていない しかし他人の中には こういった事で気がふれてでもいるかのようになっている人をみたことはある

それをわけるのが おそらく 瞑想の素 の不足という 実在からの休息期間のメッセージにあるのではないだろうか?

つまり瞑想することにその栄養素であるロマンが足りていないときは 思い切り欲人になって 非物質世界への囚われなど忘れてしまうのもまた修行なのである

 そんなとき人は まかり間違っても 波動が下がった とか 低級霊にとつかれる とかいわないのである それが証拠に 低級霊がウヨウヨいそうな居酒屋には 笑っている人しかいないし 誰もそんな世界のことは気にしていないのである

それこそが 真のグラウディングであり その 瞑想世界から離脱する旅と また戻り瞑想世界に没頭するその振幅こそが 真の実在認識に至る鍵だといえるだろう

実はこれが 修行の飛躍的進歩につながるのである ゆえに ニサルガダッタマハラジはいうのである

『 貴方がたは 今こうやって私の話を真剣に聞いているが 全て忘れて遠くにいくこともあるのだ それはおのずとそうなる なぜか人は 魂追求から離れる旅をしたり魂の修行に関心をしめさない時期もある 』

と・・・・ つまり今わかることは マハラジはこれらの表現でどこまでも不思議な実在の実態を現わしているのである

それゆえ 未来を占うタイプのものはそれをやった瞬間から厳密には全て外れることをいうのである つまり実在とはどこまでも法則性を嫌い 天邪鬼でもあり 天才を超える役者だということの戒めでもある

つまり 刹那における相関関係のつながりという膨大なストーリーをつくりあげ 時間軸でそれを展開しているにすぎないのだ

つまり 占いを行った者 また占いを受けた者 それらの意識にある内容がものの見事なストーリーになるように 当たるようでもあり外れるようでもあるように現象宇宙の相関関係が動いていくのである もちろんそれら当事者の誰もがびっくりするように、事実は小説より奇なりという現象が一瞬単位で動きはじめ ついには丁度良いあんばいに結果がでるのである

つまり いえることは 占いが当たる当たらないではなく 占いを行って何かしらを感じたという瞬間の動機が未来をつくるのである したがって 未来をみるタイプの占いとは当たるはずが無いといえるのである なぜかといえば それら占いをしたという行為や感想もかなり強く現象宇宙に反映されるからだ

話は 魂追求の旅に戻り、こっからが私の持論だが シンクロニシティの連続体験とは これらの"旅" をやったほうがそれを実感する領域までいきつく修行効率は強まるのである 実在の真の姿とはここにこそある といえるだろう

実は 実在を求める=霊性修行 それそのものの中に矛盾があるからだ もちろん瞑想も含めての話である

実在を垣間見るか?否か? のこの究極のゴール以外のプロセスは 実は全て平等に働いているからなのである

現実物質世界 = 瞑想における内面世界 この域に達するまでの間において 人はスピに目覚めていようがいまいが同じといえるだろう
宗教に没頭する、スピ系としての心構え あるいはその真逆の生活 そんなものはただ単なる趣向性の問題でしかないとなるのだ
あえてその能力的なことをいえば 超厳密に超聡明に意識を世界を観察し続けられるか?どうか これのほうが重要といえるだろう
いくら 霊性を極める修行をやろうが スピに邁進しようが 人間であるからにはさほど違いはないのである

もちろん 私は実在を認識する と宣言しない以上それは永遠にこないし スピを勉強したり 修行したりするのは何だかのメリットはあるが その長期的修行過程においては 霊性修行ばかり邁進するというのは明らかにそもそもがおかしいのだ

また『 いや 私はオーラさえみれるようになればいい 悟りの世界には興味無し 』という人がいたとしたら その時点で 実在はほぼ50%の確立で こういう人こそ 生霊の恐怖というのを実感させるべく動きはじめるかもしれない(※ジョーク)
でもそれは 細かい点ぬきにして必要なものが自分の現象世界に現れるという点からいっておかしくはないのである
つまり上のような人には、その人の潜在心理が元になり その歪みの補正をその人が構成するということであり 学習がおわればそれまでである
もちろん 生霊などというものは 必ず恐怖が原理となりそうなるのでありそこに実態は何も無い 全てはその人が作り出したものである

よって 瞑想修行なるものは もちろん毎日やってもいいが やる気がおきないときは そんなものは忘れて欲人としての日常を思い切り送るのもまた必要なことである 瞑想において そういう期間を設けたほうが明らかにロマンエネルギーが溜り 効果をあげることがあることは確かである

(※ ロマンとは世界や自分自身の未開の部分へ向かおうとする最も深くにある冒険心)